DIARY01
旧・彷徨日記
明け透けな毒入り独白備忘録
本ページについて
2014.08.08
本ページは2014年08月08日をもって更新を終了しました。
本ページ内に書かれている内容は、更新当時の心境を明け透けに記したものであり
今現在の考え方や捉え方とは異なる場合が多々ありますゆえ、その程度に読み捉えて頂けると幸いです。

2014年08月08日以降


 現・彷徨日記進行中 ぬるま湯
2014.07.31
自主制作が…終わり…ました…!
当初の予定の3倍も時間を喰いました、予定なんてクソクラエ状態です。
大変すらも楽しもうと、妥協なき制作をしていたつもりでしたが
結局はいつも通り、仕上がったものを観ると悔しさに飲み込まれてしまいました。
それでもそれが必死にやった結果、目を背けずに目の玉ひん剥いて作品の帰趨を見守りたいと思います。

公開は来週末にもできればなぁと考えています。
なにせサイトの改装準備何も出来ていませんから!
ほんとにもう、予定なんて…です。
兎角そんな感じなので、サイトの全改装と合わせて公開できればなと思います。
その際は、どうかご覧頂けると幸いです。
よろしくお願いします。

そういえば。
このサイトもあと一週間程なので、最後に小ネタばらしを。
コンテンツページの上部に黒いメニューバーがありますが
「CONTACT」の右隣、何もない黒い場所に数秒マウスカーソルを動かさずにいると…
という何の意味も無いネタを、このサイト開設当初から載せてましたw
気付いた人、いたかなぁ…。


先日、旧友が京都まで遊びに来ていて久々に会いました。2年半ぶり?
野郎友達と会うのも久々でした。
…ぼっちぼっち嘆いてますが、野郎友達と会うの自体、1年ぶりぐらいだったりします…。
そんな話はさておき、彼の近況や、気心知れた野郎としか話せない事も沢山あって楽しい一時でした。

2年半という月日は短いようでそれなりに重みもあって
取り分けここ1、2年で自分を取り巻く環境は劇的に変化しており(恐らく人生におけるそういう段階なんでしょう)
自分自身が、どんどん削り取られては別のものを貼り付けられているような感覚でした。
すると日に日に自分が別物へと摩り替わっていく様な錯覚さえ覚えるのですが
ふとしたタイミングに、劇的な変化を迎える前の存在と向き合うと
あっさりと昔の自分が出てくるのだから面白いものです。
とはいえ大筋が戻ってくるというだけで、お互いに細部は尽く変化しているのも確かでした。
そこには虚しさや焦りや期待や喜びがあって、垣間見えはするのですが
あくまで大筋だけでこの時間を終えようよ、という暗黙の了解みたいなものもあり
古きよき友人というのは、お互いにとってぬるま湯のような関係なのかなぁなんて感慨に耽りました。
常にそれでは駄目だと思いますが、たまの休息にそういう時間を持てるという事は心底ありがたいものだなぁと思います。
こんな贅沢をこの先も大事にしたいと切実に。


健康ファイター
2014.07.17
自主制作が…終わら…ない…
この感覚、なんだか久々です。
「どうにか終わらせなきゃ!」ではなくて
「出来れば早いとこ終わらせないといけないけど妥協もありえない!」
という、〆日に対する圧倒的な意識の違いです。
これダメなやつです。
おかげでとにかく面倒な事ばっかりしている気がします。
そして、必死こいた結果をプレビューしてみては「なんてツマラナイものを…」と…。
ほんと、いつも通りで呆れちゃいますが、そういう全部ひっくるめてやっぱり楽しいです。
今月末〆の有名なあのコンペに出したいなぁと真剣に考えているので、どうにかそれまでには…!


死んで生き返りましたれぽ(pixiv)
今日ツイッターで流れてきた、闘病生活を描いた自伝的漫画です。
徹底して主観で描かれ続け、そこに変な誇張も無く、個人のリアリティこそがあって読み入りました。
小童の時は色々想像に難しかったのですが
さすがに今となっては「生きていてよかった」という感覚を、本当に誰に対しても強く思えるものですね。
身近にこんな人いたら思わず「この馬鹿やろー!」と怒っちゃいそうですが。
兎角今は、全く見ず知らずの人ですが素直に
「回復して今再び絵を描けているようで、本当に良かった」と思うばかりです。

個人的に、同じ制作業・自営業・絵描きとして、奇妙すぎるほどのリアリティも感じました。
スケジュールや物量にどんどん追い込まれ、家から出る時間を失い
「やりたい事をやっている」という強迫観念染みたものに抑え込まれ
満足に人と会う事も無く、生活は日に日に悪化し、意識感覚が鈍り…
自分がどうこう、というよりも実際に周りもそんな人ばっかりで、見っとも無いほどに本当にそういう世界なんです。
そしてこれは本当に酷いなと思うのですが、日本人の"忙しいという美徳"と相まって
"そういう状況こそ、いっそ誇らしい"というような風潮も少なからずあるように感じています。
酷いと言いながら、愚かしくも自分にも多分に覚えのある事だから余計に悔しいのです。

それでも自分なりに反省し、ここ1年ほどですが
毎日極力外に出るようにしているし、運動も少しでも取り組み、食生活も安定を図っています。
睡眠時間も極力規則的にしています。
おかげ様で、何だか健康な気がします。
そうです。
僕は健康です。
とっても元気です。
毎日ちゃんと寝れてます。
どうだ!すっげぇ格好良いだろう!

苦痛を耐え忍ぶ必要もありませんし、悲鳴は悲鳴で上げて欲しいと思いますが
お互いに追い込まれていく自身を見せ付け煽って、お互いに不健康になっていくぐらいなら
お互いに健康過ぎる様を見せて、お互いに摂生を促しながらやっていくほうがずっと良いと思うんです。
僕は知人や同業者がぶっ倒れたり病気になったり、帰らぬ人になるのは絶対に嫌です。

そんなことで最近、個人的にですが
制作業に携わる人はスポーツ選手と同じ考え方をしていけば良いんだと思っています。
サッカー選手が毎日3時間睡眠で走りこんでいたら、どうでしょう。
毎日肩が動かなくなるまで投球している野球選手がいたら、どうでしょう。
毎日ゼリー飲料だけで生活しているテニス選手がいたら、どうでしょう。
そんなの、僕はプロでもなんでもないと思います。
だって長続きしないの分かりきっていますから。
制作業だって同じです。
心身を健康に維持しながら、その限界線を見極めて常にギリギリまで出し絞る。
そういうさながらスポーツ選手のようなやり方をしていったほうがずっと良いんじゃないかと思っています。

芸術家はそうじゃない!と反論されるならば
僕のやってることは芸術なんかじゃないですから…としか言い様もありません。
僕がやってるのはサーカスみたいなもんです。
ビックリドキドキさせて、時折笑いがあって、時には謎の感動までさせて
そして最後には拍手喝采で終われたら、もう何も言い残すことは無い。
そういう事をやっているもんですから
自分が壊れるまで追い込み境地を見出す芸術家とは一線を画する別ものだと思うんです。

どちらに属していると思うかで色々違うのかもしれませんがいずれにせよ
せめて健康で、老衰するまでは追い込まれながら元気にやっていこうよ、なんて同業者皆に願ってます。


君に泣いてる暇はない
2014.06.30
時間が経つのは早いもので、6月ももうおしまいです。
今年も半分おしまいです。
「6月中に公開」なんて夢見た自主制作も、まだまだ道半ばです。
…色々過ぎていくのに、こっちは全然終わらない…。

という訳で、自主制作ですが
ゴリゴリと作画を楽しんでいたら、ダラダラダラダラ延びてしまって、まだ少しかかりそうです。
全然成長しない「予定は未定」ぷりですが、進んではいるはずなので…もう少ししたら!
もう少ししたら…。
合わせて、サイトを作り変える準備も始めないとダラダラが加速しそうな勢いです。
作画をしながら色々サイトの妄想もしているのですが
こっちに至ってはイメージもあまり浮かばず、どうしたものかなぁ…色々と迷走中です。

そんなこんなで、最近は何だかこんな調子です。
「大変を楽しむ」なんて言葉が脳裏にチラついて、年初めの自分自身と顔合わせるのは何だか気まずい気分です。
鈍足ウサギじゃマズイのに…ビシッとせねば。


昨日のサイト更新について少し。

・FULL MOON PARTY
こちらだいぶ前からチマチマお手伝いをさせて頂いてる作品です。
1080pで見ないとちょっと伝わりにくい(ブラーに対するノイズが凄まじいようで…)のですが
かなり格好良いタッチで画作りをしています。
これが中々に大変なのですが、その分シャープでいい感じに仕上がっているので完成版にもご期待頂けると!

・マジカルアイズの販売開始
OPの制作を担当しましたノベルゲーム「マジカルアイズ」が販売開始されました。
こちら(外部リンク/Amazon)より、購入できます。
PCでゲームをするのは少し敷居が高いかもですが、興味ありましたら是非!


近況と、カウントダウン
2014.06.05
一月振りです。
近況報告を少し。

前回、引越しがどうのこうの書きましたが
その引越し先で、いつも音楽でお力借りてるあまつぶのpurikokoさんと同居をはじめました。
こよなく愛していますゆえ、夏頃にも入籍予定です。
ウェブ上で書くのは照れくさかったので今までコソコソしていたのですが
どの道どこかのタイミングで分かってしまうだろうという事で書くことにしました。
それに伴って色々環境も目まぐるしく変化しており、ついていくのに精一杯な毎日です。
世のお父さん達はみんな、当たり前のようにこういう諸々を乗り切って
だっせぇくっせぇと蔑まれながらもスーツを着て戦っているのかと思うと、頭上がらないです。
…だっせぇくっせぇと蔑まれている…というのは偏見でした。
どこぞの社長さんが
「仕事を上手く出来ない社員でも、家に帰ればちゃんと"お父さん"をやっている。
 私は必ずしもできているとはいえないからこそ、それだけですごいと思える。」
という話をしていたのが印象的でよく覚えているのですが、今になって納得ものです。
まだ"お父さん"には恐れ多くてなれそうもありませんが、少しずつこの環境で戦っていける人間にならねばと思うばかりです。


話変わりまして、自主制作。
とりあえず、この環境での制作に慣れる為の一本をせっせと制作中です。
ですからそう遠くない内に…この6月中!…を目標に。
多分その際、サイトもガラッと作り変えます。
もっとシンプル軽く、でも見て楽しいものであればと妄想中です。


全く別方向に話変わりまして。
多分よくみるコピペで
「~あと何日カーチャンと会える日があるか。」
というアレ。
初めてみたのはだいぶ前のことですが、その時はやはりウッとくるものもあり
残された時間というものを改めて考えるよいきっかけになったのを覚えています。
時間が経って、そんな事すっかり忘れていた気になっていたのですが
ここ最近になって、少し形を変えてそれが繰り返し過ぎるようになりました。

半年ほど前、定期的にある感覚に襲われました。
「終わり」の感覚です。
よくある平凡な一日の終わり、ペンを置き、背もたれにグッと寄りかかり
凝り固まった背を思いっきり伸ばし、僅かな快感に酔いしれるその瞬間
「あぁ、ようやく全て終った、これでもう何もしなくて良い」
と脳裏に過ぎるのです。
勿論大嘘です。
作業は何も完了していないし、寝て起きれば同じ作業の繰り返しが明日も明後日も待っているのです。
頭ではその事実をよくよく理解しているのに、何故か「終わり」が浮かぶのです。
そう脳裏に過ぎって間もなく
「いやいやいや」
と鼻で笑うようにその阿呆な考えを否定するのです。
また別のタイミングで、毎週来る金曜の夜にも同じように
「やっとこれで全て解放された」
と、まるで定年退職を迎えるかのような達成感と心地良さを覚える事もありました。
これまた同じようにすぐさま
「いやいやいや」
と否定するのです。

こういう、理由の判然としない「終わり」への執着が一定期間続きました。
誰しもそんなものかと思い、他人に笑い話のように話してみれば「何じゃそりゃ」と変な顔をされ
全く共感を得られず、ますます不思議な感覚でした。

しかしその不可思議な感覚も、ある時から消え失せました。
それからまたしばらく経った最近になって
冒頭の「~あと何日カーチャンと会える日があるか。」という感覚と
何だかごちゃ混ぜになって、再び頭を過ぎるようになりました。

というのも、あらゆる事に対し「終わりへのカウントダウン」をくどいほどに感じるようになったのです。
本当に稀な事から日々繰り返される些細な事にまで
「死ぬまでにあと何回これができるのか」と頭を過ぎり、少し寂しさを覚えています。
そうこう考えるうちに、割と多くのことが「これで最後」或いは「あれで最後だった」事を痛感させられて
なんと言えばいいのやら、日々の経過の無情さを今更のように思います。

この感覚を覚えて、日々を愛おしく時間を大切に…過ごせれば良いのですが
僕はそんな殊勝な人間でもなく、ただ虚しさを覚えて、一定期間過ぎればすんなり忘れていくのだろうと思います。
この「終わりの感覚に襲われる期間」もあと何回あるでしょうか、きっともう何回もないんでしょう。

人の終わりが、自由の最高到達点だと今でも思います。
生きている事が、何より不自由だと変わらず思っています。
だから、終わりゆく事に少なからず希望もある、そう考えていますが
同時に一つずつ失っていく不自由に虚しさも覚えて
全く人生というのは侭ならないものだなぁ…と漠然とした思いに駆られています。

「消費し続ける」単純なその仕組みが、今はなんだかとても寂しく感じています。


引越しと、目隠しマラソン
2014.05.03
ごめんなさい。
お仕事の動画「くら寿司」の欄内に、動仕として記載していた有限会社AIですが
どこかでこんがらがって、有限会社スタジオAIと誤記してました…。
名前を間違えるとは大変な失礼を…申し訳ありません、先ほど訂正しました。


動画公開からの引越しでかなりバタバタしていましたが、ようやく落ち着いてきました。
今、新居でカチカチとキーボードを叩いています。
同じ市内ですが少し北上し、山や河がすぐ傍になりました。
ど田舎ではないですよ、京都は山や河と町がやたら近い場所が結構あるのです。
まだあまり出歩いてはいないのですが、これは散歩がとても楽しそうです。

…話飛びますが今日、田んぼの横の溝にある草花苔水に興奮して、「すっげー綺麗!」と一人走り回っている…夢を見ました。
散歩は趣味だと自覚していますが、まさか夢にまで見るとは思わず驚きました。
おまけにここ連日ずぅーっと悪夢続きだったんです、足がもげたり、飛行機が墜落してきたり。
そんな悪夢の流れから急転して今日の平凡過ぎる夢に、なんだか自分で驚きました。
散歩平和。

…話戻りまして、引越し。
諸々の荷物動かして、生活環境整えて、作業環境整えて、ネットも繋がって
とりあえずGW中には普通の生活に戻れそうな感じです。
前々から「くら寿司」の案件で仕事は一区切りと書いていましたが
その通りに、普通の生活に戻ったらしばらくは自主制作を楽しもうと思います。
形になったらサイト等々で告知する予定なので是非、ご覧頂けると!
よろしくお願いします。


少し前ですが、アニメーションの制作と同業者との競争を
目隠しマラソンのようだと書いたことがあります。
黙々と作り続ける時間が比較的長く、その間同業者はお互いに何をしているか不透明で
成果が出たところではじめて、お互いに現在地を確認しあう。
目隠しだから明後日の方向に走っているかもしれない、ペース配分を間違っているかもしれない。
成果を出すまでしっかり確認できない、ちょっと怖ーい競争…そんな風に感じています。

それで先日、多くの同業者が立て続けに自分の現在地に旗を立てていきました。
…その旗がみんな前のほうに見えるんですから、なんだか「ヤラレタ!」という気分です。
せっかくなのでその旗々をダダダっと、久々の列挙です、公開順に。

「あきちあそび:PLAYGROUND」animation(Youtube埋め込み)
この方がメイキングのみ公開している、Making of Growth Factorn(Youtube埋め込み)も気になります。
制作者さんはゴジラが好きというので勝手に同類だとか思ってまして…趣向が似たとこにあるんだろうなぁという気がしています。

自主制作アニメ『ガルダ』ver.DEMO(Youtube埋め込み)
この方の、クロノコドモ(Youtube埋め込み)という作品をだいぶ前に拝見し、化けそうだなぁとか思っていたら化けていました。
世界観や絵柄が好みで、とかく完成版が楽しみです。

cencoroll2 PV(Youtube外部リンク)
ようやく来ました、宇木さんのセンコロール2。
この人の色彩センスには逆立ちしても全然敵う気配がありません…めちゃくちゃ綺麗だなぁ…。

「ポレットのイス」(Youtube埋め込み)
フミコの告白のTeteさんの新作です。
スタッフも少しずつそろえて、着実に正確に前に進んでいるようですごいなぁとただただ感服です。
彼の作品の中では個人的にはこれが一番好きです。

【初音ミク】ストリーミングハート【オリジナル曲】(ニコニコ動画外部リンク)
宿敵ががめさんの新作です。
なぜか、彼がpixivに投稿していた腐女子?をテーマにしていた漫画を思い出しました。
とはいえこれまた方向性の全く違うものを出してきたのでとても新鮮でした、アクションシーンの迫力流石です。
…宿敵気分で我侭を一つ言うと、やっぱりががめさんには思わず頬の緩んでしまう作品を期待してしまいます。
…付け加えて我侭言うと!ほんとは色んな作品で殴られてみたい…あれこれ、すごいドMみたい。

カラスは真っ白 "fake!fake!" / A crow is white "fake!fake!" (Official Music Video)(Youtube埋め込み)
植草航さんの新作です。
彼の真骨頂を最大限発揮したかのような作品でヤラレました。
脳内をばら撒いたかのような混沌とした映像美は本当に流石としか言い様もありません。

とりあえず、僕が見かけたのはこんなものでした。
多分気付いていないだけで、凄まじい作品はもっともっと沢山あるはずです。
怖いなぁと思いつつ、面白い楽しいなぁと思いつつ、旗を目印にとにかく前進し続けたいと思います。


一区切り
2014.04.28
ご無沙汰です、4ヶ月ぶりになってしまいました。
HPで更新しました、お仕事の動画の4つについて簡単に紹介します。

一つ目、ハンサムケンヤ氏の「ランダム」MV。
こちら去年の6月頃にアニメーションパートの作画を一部お手伝いしました。
諸々あって、先日の公開となったようです。

二つ目、すっかりサイトで宣伝し損ねましたが、名古屋で上映会を開いてもらいました。
来場数は少なめだったようですが、来て頂いた方には好評だったと伺い、ホッとしています。
足を運んで下さった方、ご協力頂いた方、改めてありがとうございます。

三つ目、上記の上映会の繋がりで
コマ撮りと作画を組み合わせたアニメーション表現というのを少しお手伝いしました。
簡単に説明しますと、作画したキャラクターを切り絵のように切り抜き
それをミニチュアのような舞台に配置して撮影し、コマ撮り映像にする…という少し異色の作品です。
そちらのキャラクターアニメーションを大雑把に手伝わせてもらいました。
精密な仕事はほとんど、RefinedDiumさんにお願いしています。
とても良い仕事ぶりでした、ありがとうございます。

四つ目、くら寿司の新卒採用向けアニメーション。
以前同じようなことをしたような気もしますが…それの寿司屋さん版です。
今回は脚本や絵コンテといった土台部分とサビの3D背景は椙本さんが
レイアウトや映像制作は主に僕が担当しました。
こちら下準備や打ち合わせが長く、実際の制作期間は凡そ2ヵ月半だった為
とにかく僕一人では本当にどうにもできない作品でした…
こちらの拙い指示にも関わらず、関わった方々が尽力してくれたお陰で完成したアニメーションです。
是非、ご覧頂けると幸いです。


そんな感じで、年明けから翻弄されていましたが
くら寿司の案件で仕事は一区切りにして、手ぶらになりました。
ただ、今月~来月頭までは引越したりでバタバタしているので一息つくのはもう少し先になりそうです。
あと、明日から引越しの都合で数日PCがネットに繋がりません、告知と同時に雲隠れできるのは幸か不幸か…うぬぬ。

なんか少しぶりに自分のサイトを見たら重く感じてしまったので
落ち着いたらまた整理・更新とかしたいなぁと思いつつ…どうしようかなぁ。


2014
2014.01.01
新年、明けましておめでとうございます。
今年も一年、変わらぬ調子だろうとは思いますがどうかよろしくお願いします。

新年早々、反省から始まるのもいかがなもんかと思いますが
2013年の総括などすっかり忘れていたので、そちらからゆるく…。


昨年の今頃、2013年の抱負は「不屈自立」だ!と肩を怒らせる勢いで居りましたが
振り返ってみれば、結構に散々な一年でした。
ここ数年、困った事・悪い事と言えば半分は外的要因によるもので、厄年だなぁなんて流していたのですが
昨年の散々ぷりはほぼ自分の姿勢や取り組み方の問題、精神的な崩れに依るものでした。

取り分け仕事に関して、本当にただただ力不足、そういう自覚を得ただけでした。
大言壮語を吐く元気も削がれる勢いです。
その不甲斐無さは夏頃にピークを迎え
その頃の日記はボッロボロな惨状を懸命に取り繕って益々惨めといった状態をよく残してくれています…。
そんな有様でしたから当然、「不屈」なんて言いながらボキボキでした。
自立についても、経済的な話に関しては瀕死に陥る事も無くなったものの、生活面では堕落そのものでした。
仕事が追い込まれるとすぐに自炊から逃げてしまうし
ゴミも洗濯物もドンドン溜まる、それを頑張って片付ける努力も半端もの。
生理的な問題でゴミ屋敷にはならんのですが
少し前に「姉貴様の部屋きたなすぎだろおおお!」と叫んでいたのも
今となっては少しばつが悪い感じです。

そんな訳で、不屈も自立もボロ負けでした。
時折「そういえば今年の抱負は…」なんて思い出しては「ひっどいなぁ…」と凹む、そんな一年でした。

ただ、2012年に立てた抱負「迅速と忍耐」について
「その年はイマイチだったけど今後も継続してく!」みたいなこと書いたと思いますが
それに関してはだいぶマシになったように思います。
しかしマシにはなったのですが、昨年12月は連絡地獄に陥ってしまい
午前中は連絡・報告して終わり、みたいな感じになってたのが困りものでした。
そこはどうにかしていきたいなぁ…妙案なにもないのが難ですが。



総括は以上です。
そんな諸々の反省を踏まえ、ここまでの抱負を見返しつつ…。

2009年「絵を描く!」
2010年「続ける事」
2011年「邁進」
2012年「迅速と忍耐」
2013年「不屈自立」

2014年の抱負は「大変を楽しむ」に決めました。
…ここにきて調子が、2009年とか2010年に戻ってますねw

抱負については二つ、制作と私生活との両方の課題になります。

制作については
京都に来てから、今年の3月で2年になりますが、その間にひたすら拙速に努めてきました。
それも今年の3月で一区切りにしてしまい、以降は長らく待ち望んでいた自主制作をしたいと考えています。
すると正直、面倒ばっかりなんです。
納期らしい納期もない、音楽的な尺・制限もない。
あるのは自分の面倒だなぁという堕落的感情との戦いのみです。
これが本当に大変なんです。
でも心底待ち望んでいた戦いなんです、だったら楽しまないと大損です。
だからそれを全力で、芥ほどの妥協もなく楽しんでやろうという思いです。

また私生活も諸々変化する事になりそうです。
私生活の変化を制作と並行しようと思うと、やはり大変な事ばかりです。
が、そこはだらけずにせっせと楽しんでやろうと思います。

そんな二つを想定し「大変を楽しむ」姿勢で、2014年を走り抜けたいと思います。


今年も相も変わらずこんな調子だろうとは思いますが
どうかゆるくご観笑していただければ何よりです。

こんなところまで読んでしまった物好きなアナタにとってよい一年であることを祈りつつ
今年も一年、どうかよろしくお願いします。


1年!
2013.12.27
今日、少し怖い夢を見ました。

「時をかける少女」「シュタインズ・ゲート」「魔法少女まどかマギカ」云々…
時間を繰り返し繰り返し自分の勝手を叶えようとするお話ですが、そういうのを散々にみてきたせいか、それを夢に見てしまいました。
しかも自分が時間を繰り返すのではなく、僕の旧友が時間を繰り返すのです。
それも僕を殺める為に。
彼の僕殺しは何度も成功するのですが、その犯行がバレて捕まってしまうたび、彼は時間を繰り返すのです。
バレずに捕まらずに僕を消すために。
しかし夢の中の僕が、何度目か分からぬ僕殺しにやってきた彼と目が合った瞬間に
「僕はあいつに何度も殺されてる」と思い出してしまい、目が覚めました。

…一体なんの恨みをかったのでしょう…或いは何に怯えていたのだろう…
その旧友には、もう10年近く会ってもいないのに。
夢の中の配役は時折まったく不思議で仕方ありません。
…「所詮は夢だし」ということでしょうか。
とかく、今朝は憂鬱な目覚めでした。



前回の日記からだいぶ経ってしまいましたが
「マジカルアイズOPアニメーション」について、少し書かせてください。

本作、最初に依頼を頂いた際、音楽とキャラクターデザインと絵コンテを同時に頂きました。
諸々資料を見て、キャラクターデザインの複雑さ(あくまでゲームのキャラですし)もあり
絵コンテをこちらの作りやすいように改変し、制作する方向で進めることになりました。

改変の方向性は極めてシンプルで「キャラクターの作画を避けて、背景に注力する」でした。
というのも前述のとおり、キャラクターデザインが僕の技術を大幅に上回っているように感じてしまいまして…
たぶん、僕が普段にデザインするキャラの倍は線があるんです。
「スーサイド・バラッド」の際、キャラクターにスーツ着せただけで
「線の多いキャラを動かしてみた!」なんて思ってたレベルですから。
それより圧倒的に線のあるキャラを動かし続けるのは無理があると思い
かといって静止画を垂れ流したりいわゆるギャルゲー的なOPにするのも違うなぁと思い、あの形に落ち着きました。

曲についても、僕には大変難易度の高いものでした。
ラップなんて普段滅多に聞きませんし、ラップの音の強弱はとりわけ新鮮でした。
僕が普段に聴く曲は、フレーズの始まりに強い音があるのが大半であり
映像は基本的にその音に合わせれば、心地良くスムーズに場面転換等うまくいくんです。
が!
ラップは抑揚激しく、強い音の位置が僕には中々掴めず苦戦していました。
ちゃんと音と映像とが心地良いリズムになっていれば良いのですが…。

…終えてみれば、終始力量不足を感じつつの作業だったなぁという印象です。
背景を描いてみては、面白くない絵だなぁとか
作画してみては、キャラデザからかけ離れてるなぁ…とか、ずっとそんな調子だった気がします。
うぬぬ。
ただ、画面全体の調子は何だかんだ拙作の中では仕上がっているほうではないかなぁ…と願いつつ。


あと、「リゼットの処方箋」について。
本当に偶然、上記の「マジカルアイズ」の依頼を請けて間もなくこちらの依頼が来ました。
ゲームのOPが連続でくるなんて、なんかあるのかと勘繰りたくもなりました。
ただこちらは、「マジカルアイズ」があったのでがっつり携わる余裕もなく、いわゆる撮影だけやりました。
(この職名そろそろ変えるべきじゃないかなぁと思います…なにやってるかサッパリ分からないし)
王道的なアニメのOPといった感じで、受け入れやすいんじゃないかなぁと思います。


どちらのゲームもたぶん、来年の早いうちには遊べるようになると思うので、是非。

…因みに
「マジカルアイズは何枚描いたの~?w」と聞かれたのですが、スミマセン分かりません。
「あぁん!?いっつも自慢してたじゃねーか!作画避けたら黙るとか云々」とか言われそうですが…
実はあれ、いつも書いてたのには少し理由ありまして。

僕が無知で編集ソフト等々の使い方を全く理解しておらず
作画した画を一枚一枚PNGファイルで全部保存していたんです。
だから制作終了後に、フォルダのファイル数検出したら大体の枚数がすぐ分かったんです。
それで「今回○○枚書いた!」と自慢げに書いていたのですが…
PSDファイルをそのまま読み込めると知り、PNGを全く使わなくなったので、実際に数えないと枚数が分からなくなったんです。
そうなると、そんな何百枚も数えてる暇あったら、正直なとこ日記を書いていたいです。
という訳で今後は「何枚書いたぜ!」とどやぁする機会もあんまりないかもしれません。
たぶん。



とか言ってる間に、今年ももうすぐおしまいですね。
年末年始はコタツでぐーたらしていたいです。
コタツないけど。

…とか書いてて思い出しましたが、このHPは今日でちょうど一年でした!
うわぁ「雑談」とか「落書」とか一年間準備しっぱなしでスミマセン。
足を運んでくれた方々、本当にありがとうございます。
これからもどうか、よろしくお願いします。


予定
2013.12.09
寒い、寒いです。
それはそうと、前回書いたアニメーション作品の公開は
早くて今週末、遅れても来週頭の公開予定だそうです。
「近いうち」といいつつ、微妙な間になってしまいました。
世の中スケジュールなんてあってないようなものなんです…スミマセン。
代わりといっちゃなんですが、イラスト一枚載せました。
ラフに毛の生えた程度のものですが…思ったよりも表情気に入ってしまったので
あんな絵も少しは混じってていいかなぁと思いつつ。


そういえば昨今、3DCGのセルシェードの台頭目覚しく、よく見聞きするようになりました。
なんとなく、07年頃にアイマスのゲームを見て「あぁこれは間もなくアニメも喰われそうだ」と友達とよく話しましたが
現実にそんな波が迫ってきているなぁという印象です。

そんな折ぼーっと考え続けて、最近一つ決めました。
時代に逆行するようで駄目かもしれませんが、僕は手が動く間は、手描きのアニメーションを作り続けようと思います。
ここの日記でも散々3DCGなんかじゃ駄目だ!と碌な論拠も示さずにほざいてきましたが
見返してもみれば結局「手描きのアニメが好きだ!」というだけの話だったように思います。

かぐや姫の高畑監督がずいぶん前に、パソコンがアニメ制作に入り込んできた時でしょうか
「何がアニメーションなのか、定義しなければしっちゃかめっちゃかになる」
という類の発言をしていましたが、全くそのとおりだと思います。
僕はその問いに対し、シンプルに「人が描いた絵の連写による映像」をアニメーションなんだと随分前に決めました。
というのも、デジタル作画という胡散臭い方法にすがった以上、自分の立ち居地を確認せねば怖くて仕方なかったんです。

アナログへの憧れは未だに強くありますが、一方でその現状は
残念ながら「紙と鉛筆で描く」という定義は手法的な問題でしかなく、表現としては死んでしまいました。
だって今の王道的手法は、紙に鉛筆で描いて、スキャナーでデジタル化し、デジタル的に線を加工し色を塗り
もう一度線をデジタル加工で綺麗に直すんですよ。
もう、鉛筆の書き味なんてどこにも残っちゃいないじゃないかと、僕は勝手にそう思いました。
それなら「デジタルでもっと面白い線を探そう」と思うと、少しだけ救われました。

そんなもんだから、3DCGがセルシェードを使い、アニメっぽい表現を求め続ける事を否定できない立場です。
結局は僕も、同じようなことしてるんですから。
とはいえ、僕は3DCGには3DCGならではのタッチを期待しています。
ピクサーのように独自のタッチを確立してくれるなら、どんどん楽しんでみたいと思いますが
アニメっぽいせいで全然素直に観れやしません。
どうにかなればよいのになぁと勝手なこと思ってます。


しかし、デジタルの力を一つ借りるごとに、表現としての幅を無数に捨てている事を
僕のようなデジタル作画をする人間も、3DCGでアニメっぽいものを作る人間も決して忘れてはいけないと思います。
紙に鉛筆で横一本の線を引こうとすれば、無数のタッチを表現できるでしょう。
でもデジタル作画じゃ駄目です、頑張ったら数え上げられる程度の数しか引けません。
3DCGでモデリングしてしまったら、さらに線は減ってしまうんじゃないかと思います。
僕はこれがとても悲しいし悔しい。
いつかアナログに回帰したいとか思うんですが、たぶんそれはいずれ叶わなくなると思います。
アナログで色をぬれる人がいなくなるでしょうし、そんな人らを抱えてアニメ制作を続けることは
3DCGや、ゆくゆくは別の表現方法でお客さんや人材を喰われていくであろうこの界隈の先々を考えると、とても現実的とは思えません。

でも、個人で完結できる現在の自分のような状態であれば
手描きという面倒な表現方法でも続けられる可能性もあるんじゃないかと思います。
大所帯には無理なことができる、少数部隊の最大の強みを活かさねば、とかちょっと格好つけて考えてます。


…にしても、なんでこんな厄介なものに惚れてしまったんでしょうね。
魅力的なものはどいつもこいつもトゲだらけです。


パテマとかぐや
2013.12.05
すこしぶりになってしまいました。
10月頭からやっていたアニメーションがほぼ完了しました。
多分近いうちにどこかしらで出てくると思います。
その際はHPなりどこかしこで宣伝すると思うので、どうかどうかよろしくお願いします。
…一生懸命やったつもりですが、見返せばやっぱり「こんなもんか…」と、相変わらずの調子です。
情けないですね、解き放たれたい。
アニメーション作品については、また宣伝した頃にもつらつら書こうと思います。

そういえば、下記で拙作「ジリジリもようの流々転々」が紹介されています。
NHKworld imagine-nation
tsuburaの作品として、ちょっと無理お願いしてグループで紹介してもらいました。
他の方みたら分かると思うんですが、個人を紹介しているところなんです。
そういうことで話が来たんですが…なんでしょう、自分のことはもういいやとか気取っているんだと思います。
とりあえず、RabbitMoonとか呼んでるんですが「あのロゴマーク覚えてくれればそれで十二分だ」とか。
あんまり表舞台は好きじゃないので、裏で黙々没頭させてくれる環境を作っていけたら最高だなぁ…なんて根暗なこと考えつつ。


前回の日記以降、「サカサマのパテマ」と「かぐや姫の物語」を観に行ってきました。
どちらも大変満足しました、興味あればぜひとも。
以降は毎度の、ネタバレしつつ支離滅裂な感じの雑記を。


「サカサマのパテマ」
まず、吉浦監督の「サカサマのパテマ」から。
実はこの方の作品は、宿敵ががめさんのおかげで知りました。
彼が描いていた絵で、監督の前作「イヴの時間」を知り
まもなく、たまたま泊まったホテルのVOD(カード買って映画観るアレ)で「イヴの時間」を鑑賞したのがきっかけでした。
「イヴの時間」の独特の劇空間、ベタとユニークの入り混じり具合が絶妙で
何も解決しないけれどそれでも小気味よいエンディングでした。
監督が学生時代に手掛けた「ペイル・コクーン」という作品も拝見しましたが
そちらも独特の世界設定を持ち込んでおり、最後に全てを逆転させた面白い作品でした。
だから今作も、作品に気がついた去年から首を長くして待っていました。

単刀直入に感想をいうと、とてもとても丁寧なエンターテイメント作品でした。
胸糞悪い悪役と、不満と希望を抱えた少年と、囚われのヒロインと、謎めいた世界の核心に迫る…
やっている事は、これまで何十何百回と作品化されてきたものです。
というか、ラピュタです。
でも、新海監督の「星を追う子ども」のような、露骨な影響の受け方というよりは
教科書をもとに応用問題を解いているような、そんな印象の作品でした。
…なに偉そうな事言ってるんでしょうね。
同業者だから出来もしないのにこんな大口叩くのは大変小っ恥ずかしい限りです、すみません。

でもでも。
同業者だから思うところも沢山ありました。
実は新海監督にも感じたことなのですが、この二人の監督は他の映画監督に比べ、明らかに演出が未熟です。
僕の目から見ても、未熟なんです。
…だからって僕が勝ってるとか誤解されるのも困るのですが…僕は彼らのはるか後方で吠えてるだけです。
話逸れました。
例えば、ここ最近みた他の映画ではまず感じることのなかった
「感情のぶつ切り感」というのを、この二人の監督から度々覚えるのです。
盛り上がってきたところでフェードアウトを入れてしまうとか
感情が入り始めたところで場面転換をしてしまうとか、どちらにも同じようにありました。
個人から上がってきた監督同士の悪い意味での共通点なのかなぁなんて思います。

それもあって、折角のよい舞台、物語、世界観も、もっと活かせたんじゃないかとか欲の出てしまう作品でした。
でも、一緒に見ていた彼女さんは演出の不思議なノリというのをあまり感じなかったようで
ただ単に同業者だからこそ気になっただけなのかもしれません、或いは僕が変なのかもしれません。
そこら辺が、もうよく分からんのです。
仕事にすると趣味にできなくなるというのを益々感じている今日この頃です。


「かぐや姫の物語」
お次、かぐや姫の物語。
高畑監督作品は、実はそれほど好んでおらず、山田君は未だに観ていません。
今でこそ、あのタッチはものすごくそそられますが。

ところが。
僕は今作、大変に気に入ってしまいました。
敬愛して止まない宮崎監督の最後の作品「風立ちぬ」よりもずっとずっと好きでした。
特別面白い作品でも、取分け泣ける作品でもないと思います。
ただ、心の奥底になにかを残し、何とも言えない余韻を強烈に残す作品でした。
ビジュアルも相当ですが、それ以上のなにかがしっかりあの映画にはあるように感じられ
初動こそイマイチのようでしたが、おそらく十年二十年かけて多くの人に語り継がれていく作品になるだろうと思います。
そうであって欲しいと思います。

この作品には、僕がアニメーションに願って止まない二つの要素が、圧倒的な存在感を持って在ったんです。
それがとにかく嬉しかった。

かぐや姫が酷い境遇の生活を「なんてことないわ!」と
屈託のない笑顔と芯のある声で言ってみせたとき、驚くほど救われました。
全くそうです。
確かに生きているならば、あらゆることは「なんてことない」んです。
その時は確かに辛いだろうけれど、いずれも結局、なんてことない。
そう思うと、本当に救われました。

ただ、原作至上主義の方にはふざけんな!って作品かもしれません。
しかし映画館にあったチラシの裏の監督のコメント
「かぐや姫を心情の理解できる、共感できる"人"として描こうとした」
これが全てだと思います。

ほんといい映画です。
好き嫌い分かれる作品かもしれませんが、是非観てみてください。


そんな感じです。
多分近いうちに、サイト少し更新したりする予定です。
予定です。


宿敵
2013.11.17
先日また一つ歳をとりました。
年とったといえいつまでも若輩者なんだと言い聞かせて、天狗にならんよう気をつけたいところです。
そんな折、相互リンクのががめさんに色々と嬉しい事をしてもらいました。
ほんとにもう、ありがとうございます。

彼は前々から「兎はライバルだ!」という言い方をしていますが(彼は亀を名乗っておりますし)
僕は兎を名乗りつつも、なんとなく自分の事ではないのだろうとずっと思っていました。
というのも、世には「兎」を名乗り素晴らしい創作物を生み出す人が五萬といたことと
僕が彼を知った時から今現在まで、彼は僕の遥か先を走っていると思っていることとあり
僕は彼と肩を並べて切磋琢磨出来るレベルではない、そう思っていたんです。
ですがしばらく彼の日記を読み続けて、流石の僕でも「あぁ兎には僕も含まれているのか」と察する事ができ
とても誇らしくも、なんとも心地良いプレッシャーになりました。
クソみたいなのつくっているわけにはいかないな!と。

それからというもの、あれこれ作ってみては彼の作品を見て
「あぁ僕は彼の数年前の作品にまだ追いつけていなかったのか」と悟るような時間が続いています。

…少し話逸れますが、僕は本当に見る目もないんです。
自分の好き嫌いぐらいは鼻息荒くして語れますが、自分の作品と他者の作品とを比べ
どちらがどの程度に達しているのか、正直全然分からないんです。
ある時は、漫画家鳥山明の絵を見て「もう少しでおいつけそうだ!」と馬鹿みたいに驕り
ある時は、子供の落書をみて「あれ、この子の観察力にボロ負けしてる」とか痛感してしまったり
もうしっちゃかめっちゃかなんです。
お陰で、これは本当に頻繁に起こるのですが
誰かに追いついた!と思うも半年経って見返せば実は
自分はその人の遥か後方で、その人の影を踏んで喜んでいたりするだけなんです。
自分の力量も他者の力量もさっぱりはかれちゃいません…。
本当にこれは致命的なんだって思うのですが…全く、どうにも分からない世界です。

と。
そんな調子でしたから、ががめさんにライバルだと言われた時は彼に近付いた気でいたもんでした。
しかし改めて見返せば僕は雑な事ばかりしていて、彼の圧倒的な練度の前では僕のやっている事は子供騙しも良いトコです。
それは如実に結果として現れていますし、こればっかりは僕の見る目の問題でもないと思っています。
そんなとんでもない強敵をライバルだなんて思ってしまったせいで、僕は幸せだなぁとよく思います。
憧れの人でも、慕われてる弟子でもなく、負けちゃいかん宿敵ですから甘えていられませんもんね。
これ以上に必死になれる理由も、そうないんでしょう。

そんな訳で、よきライバルがいる事は素晴らしいというありきたりな文句を痛感しています。
この先、肩並べて全力の拳で殴り飛ばして「待たせたなっ!」といえる日が来るよう、頑張らねばと思います。


…それはそうと、3時間ぐらい前から急に鼻水です。
…なんなんだよチクショウ。
日記書くと鼻水なのかチクショウ…。


きときと
2013.11.06
ここ数日、すんげー鼻風邪です。
ほんとチクショウって感じです。
風邪なんて引かないよう体調には気をつけてください。
チクショウ。


それはそうと昨日、iTunesのラジオで映画音楽をだらだら聴いていたら僕の趣向に合致する曲があり
何だろうと調べてみたら「おおかみこどもの雨と雪」の「きときと」という曲でした。
2分ぐらいの曲ですがどハマりしてしまって…今日だけで10時間も聴いてしまっているよう。
相変わらずの偏食です。
上手く言えませんが…「嬉しい!楽しい!」という感情が思いっきり
何の躊躇いなく無防備にぶつかってくるように感じられて、とても心地良いのです。
思わず「あぁ、表現ってこういうものだよなぁ」と改めて思わされました。

僕は、絵を描いていく中で、気付いたら技術やセンスばかりに目が行きがちになり
自分のそれも同じような尺度で見てしまっています。
その事に気付いて慌てて「こんな事ではダメだ」と思い、もっと"表現"をしようとするのですが
何かを込めようとすると途端に難しいことばかり考えてしまいます。

でも僕のやりたい表現の実際は、そういうもんじゃないのかもしれません。
もっとこう、表現ってのは素直に躊躇わずにやったほうが心地良い!と、前述の曲に見せ付けられたような気がしました。

実際に僕が何か絵を描く時、一番素直になれるのは怒りをぶつけている時です。
腹の底からドロっとした感情が沸き立ち、背中からそれが容赦なくだだ漏れている時に
眉間をクッとしめて歯はグッと食いしばり、精一杯の理性でペンを握り、あえて絵を描くのです。
するとものすごい勢いで絵は進み、そして驚くように絵に感情を吸われていくのです。
この体験というのは一度や二度でなく、何度も何度も体感しているので単なる思い込みでもないと感じています。
そして、そうして出てきた絵というのはやはり普段は描けないものになっています。
こういう表現が、僕にはどうにも心地良いようです。

…これはあくまで沸き立つ感情の表現であって、大きな括りの「表現」では語弊もありそうですが。
にしてもそれ以前に僕の場合、そういう感情表現をする最低限の技術すら伴っていないのが現実ですから
やっぱりしばらくは技術だセンスだと必死にならざるを得ないような気もします…ムズカシイネ。
感情をぶつけて、それが誰彼にも響くぐらいの表現力は欲しいなぁと思いますが
どうにも今の僕には、がむしゃらにやる以外の事は思い付かないので
鼻風邪に負けずにがむしゃらにやりたいと思うばかりです。


近況、まどかマギカ劇場版をチンタラと。
2013.10.29
先日、何度目かのM3に行ってきました。
特に「行きます」等は言わず、ひっそりだらんと過ごそうと思って足を運んだのですが
「ラビットマシーンさんですよね!」と声をかけてくれる人もいて驚きましたw
このHNで呼び合う異空間にもずいぶんと慣れてしまって、それはそれで変な感じです。
あまつぶCD他、知人のCDを手に取ってくださった方々、ありがとうございます。
お世話になった方々にも挨拶できて、とても充実した時間でした。
それと今回は沢山CDやらを貰ってしまいました。
不遜な野郎に、本当にもう…貧乏なんでとてもありがたい、当面は耳が幸せそうです。

帰り際、少し特殊なイベントもありました。

少し話戻りまして前回と前々回のM3、やたら背の高い外国人があまつぶCDを買いに来てくれました。
その方は、それはもう流暢な発音で「Rail post」「dripstone」なんて発音するわ
片言で「やみなべ2(にっ)」「やまびこ少年」なんて発音してくれるわで
強烈なインパクトを放っていたわけですが、今回は買いに来ませんでした。
多分、いつもと頒布場所が違うからあまつぶCDの新譜に気付いていないのだろうと話していました。

すると今回イベント帰り際のモノレールで。
まさかの同じ車両に外国人いるじゃないですか!

ここで僕の変な思考が巡ります。
こんな奇縁ならば、もし買い漏らしているのならば、声掛けてプレゼントするのも面白いんじゃない!?
馬鹿ですよね、基本的に僕の思考はいけない方向にずり落ちています。
余計な節介この上なし。
でも、こんな僕でも色んな失敗と後悔を積み重ねて今日に至るわけです。
だから分かるんです。
今この思い付きを諦めたら、絶対後々燻る。
思い立って試せなかった道は、いつまでも叶わない可能性としてそこに転がったままなんです。

ならば!
怒声をかけられても、困られても、無視されても構わない!
とりあえずいっちまえ!
英語なんてジェスチャーでどうにかなるさ!

モノレールを降りると同時、外国人を追いかけます。
背が高いのでやたら目立ちます。
人込みをかいくぐり、外国人の背に立って
「エクスキューズミー!」ばっちり片仮名!
「わぁっ!?」多分What's!?
「ドゥュノーあまつぶ?」…いきなり質問。
「わぁっ!?」
「あまつぶCD!」
「え、シラナイ!」(NONNONジェスチャー)
「ゆーぼぅとあまつぶCDとぅわいす!」咄嗟に出てきた謎の英語!
「わぁっ!?シラナイ!」(再度NONNONジェスチャー)
ここでようやく察する、僕の英語は伝わらない。
「以前あまつぶって書いてるCD買いましたよね!」英語放棄だ伝われ日本語!
CD盤面のあまつぶの文字を見てもらう。
「え、あぁ知らないよ!多分友達に頼まれて買った分!」チクショウこの人日本語もベラベラじゃねーか!
「えぇっ」予想外な展開…
「あーでも誰だったか思い出せない!」(頭抱える)
…とりあえず渡しちゃえ!
「折角なので、もし良かったら受け取って下さい!」
「おーありがとう!友達に聞いてみるよ!」素敵な笑顔!
何となくばいばいジェスチャーして、それとなく穏便に事は去りました。

何たる言語力の差…恥ずかしい…

そんなわけで、新しい黒歴史を生んできました。
いやはや、楽しかったです。
恥ずかしかったけど。
こういう変な記憶は多分いつか楽しい思い出になるんだと期待してます。
火を噴く顔面を押さえつつ。

今回のM3はそんな感じでした。
お陰で諸々とても楽しかったです。
当面は、今回頂いた分を楽しみながら過ごそうと思います。



M3から戻り、昨日。
魔法少女まどかマギカの劇場版を観てきました。
行こうと思っていなかったんですが、彼女さんに「劇場版が今度あるってよ」と話してたらとんとん拍子に観にいく事に。
観終えての感想、とても見応えのある、映画館で観る価値のあるアニメ映画でした。
前編を観ていないと訳分からんだろうと思いますが、観終えているなら今作を観る価値は十分にあると思います。
興味あれば是非とも。
ネタバレを見る前に。

以下、ネタバレをがんがんしつつ戯言を。
…なんかあれこれ言いたくなる映画だったんです。

僕は本シリーズに特別思い入れもなかった為、取分け何かを期待して足を運んだわけではありませんでしたが
観に行く前に、なんとなく「全キャラ死ぬんじゃないか」と僕は思っていました。
というのも、いっそ全て殺してしまって物語の続く可能性を消滅させて
悪い意味でエヴァンゲリオンのように終われないストーリーになる事を避けるんじゃないかと思っていたんです。
まどかマギカならそれぐらい出来そうですし、そこまでやり切れば逆にスッキリするんじゃないかなんて思ったんです。
…と、そんな事思いながら観てた為に実際は随分マイルドに感じられました。


今作、始まり方がエヴァンゲリオンQに少し似ているように感じました。
両者ともシリーズもののため、キャラクターや舞台、世界観を視聴者は最初からよく知っているわけです。
ところが両者とも「違和感」から始まります。
キャラクターや舞台など、一部に類似性を確認できても物語が地続きになっていないからです。
エヴァンゲリオンの時は「浦島太郎にでもなったみたいで面白いなぁ」なんて思っていました。

まどかマギカは、まどかが概念になって終わりを迎えるという突拍子もないものでした。
ですから地続きならばまどかは人物としては存在し得ない訳ですが、映画始まって早々、当たり前のように魔法少女として登場しました。
この時点で「あ、ほむらはまたやってしまったのか」と思わざるを得ませんでした。
その点はエヴァンゲリオンの時と少し違い、誰かがやっちまった後だ、と視聴者に予感させる展開です。

しかし予感させておきながら、その奇妙な状態を劇中のキャラは誰も疑わずしばらく話が進みます。
ちょっと助長気味の茶番劇です。
この長さは少々ハイリスクに感じられました、それは視聴者にあれこれ推測させる時間を与えてしまっているが為
あの世界は「ほむらが原因だな」と極めて早い段階で気付けてしまうような気がしたからです。
原因が未知の存在であればそんなツマンナイ展開も無いし、かといって他の誰があの原因の適役かと考えれば選択肢もほとんどないんです。
精々「まどかが寂しさに屈して、円環の理を放棄し世界を再々構築した」などもあり得そうでしたが、これでは終りそうにないですし。
恐らく、簡単に察されまいとミスリードも幾度となく繰り返しますが、あまりミスリードになりきれておらず
そこは良い意味で受け入れやすい、悪い意味で安直な展開かなぁと思いました。

しかしそれでも「いつの間に魔女になっていたの」とか「これが魔女、私の感情が追いかけてくる」などの台詞(うろ覚え)は
これまでのシリーズの展開をひっくるめてウッとくるものがありました。

あと、箱庭の世界観ですが…
まどかマギカはTV版も劇場版も奇を衒った世界観が確実に売りの一つなんだと思います。
しかし「奇を衒った世界観」というのは初出でなければ既視感を与えるだけになってしまう為
インパクトにするのは中々に難しい事だと思っています。
まどかマギカはTV版も劇場版も使い古された「繰り返しの時間軸」と「箱庭の中の世界」というのを題材にしている為
ネタバレに入った段階で既視感を受け、僕は賢しらな感覚を覚えてしまいました。
すると途端、踏ん反り返って観てしまうのでよくないですね…踏ん反り返る自分が悪いんですが。

終盤、その箱庭の世界を炎上させて破壊していく様は、まさにアニメ映画の王道でした。
宮崎駿監督が千と千尋を作った際に「屋台降ろし」と表現していましたが、まさにそのイメージです。
古くはやぶにらみの暴君(王と鳥)、AKIRAの鉄雄もそうですね、ラピュタ、もののけ姫もそうでした。
宮崎駿監督は千と千尋でも、カオナシがぶくぶくと膨れ上がって油屋を飲み込んでしまうという展開を一瞬考えたそうですw
でも散々使い古したから止めたそうな。

話逸れました。
そんな、世界を崩すというアニメ映画の屋台降ろしが始まったもんですから
「正しくクライマックスだなぁ」と思いながら強烈な映像美に魅入っていました。
一通り世界を壊し終えて、救済の手が伸びて、なんか神々しく終らせるのかなぁなんて思っていたら
ここからとんでもないちゃぶ台返しです。
思わず「これじゃあ話終んないじゃん」と突っ込んでしまいそうでした。
…案の定終りませんでした。

そこからは詰め込むように「新しい理が~」と説明されるのですが
諸々説明も足らず、もやっとしたままに終りました。


そこでまた違和感です。
TV版でも「まどかマギカ」を観終えて、なんか出来すぎてて人間味無さ過ぎて変だなぁと思い調べましたが
今回は屋台降ろし辺りからの違和感でした。
明らかに終わる気だったんでしょう?と思って調べてみたら、脚本家はやはりあそこで終えるつもりのようでした。
ところが制作側から「続編を作れる仕様にしてくれ」となって…との事らしいです。

しかし、王道的な終わりという先入観を裏切った事でちゃぶ台返しが衝撃的に映えたのかと思うと
それはそれで良かったのかなぁとも思いました。
伏線など張ってあるにしても、それまでの100分ぐらいを引っくり返すというトンデモな返し方でしたが。

このシリーズ、多分もう少し続くんだろうと思います。
エヴァンゲリオンのように終われない作品にならないと良いなぁと願いつつ、次もまた観に行けたら行こうと思います。


…ここが変とか、使い古したネタだとか、安直とか酷い言葉を並べましたが
ここ最近観た映画の中でトップクラスの満足度でした。
怒涛の情報量で久々に「うぉー映画観たー!」という感覚に浸りました。
アニメ映画はちょこちょこ観に行っているのですが
個人的にここ3年ほどで一番楽しめたのはくまのプーさんでしたし。
映画はやっぱり楽しい。
次は吉浦監督、そして高畑監督と、残り少ない今年ですが、とても充実してそうです。

先ほど高畑監督を調べたら、今日誕生日なんですね。
おまけに喜寿、おめでとうございます。
…なんて取って付けた様で失礼しました。

(追記)2013.10.31
読み難かったので一部加筆修正しました。


役割変更と普通の社会人
2013.10.21
「回れトロイカ」の役割を、作画アシスタントから作画監督に変えました。
作家さんがその箇所を確認してくれていたらしく
「兎君、今回のはアシスタントの領域超えてるから…作画監督とかで良いよ」とのことでした。
…なんか強そうですね!作画監督。
しかし噂を聞けば、技術と労力、給料が全く割に合わない役職らしいですが…。
でもまぁ!強そうですし作画監督ぶっておこうと思います。


米津玄師 MV「ポッピンアパシー」
最近この曲、ちょこちょこ聴いています。
この歌に「選ばなかった道の帰趨を、そこにいた人を教えてくれ」というニュアンスの歌詞があるんですが
大学留年したあたりからすごくよく考えていた事だったので、なんだか嬉しくなりました。

まだ社会をよく知らなかった頃、僕にとっての社会人とは
朝8時前ぐらいに起きて髭そってスーツに着替えてネクタイ締めて、会社に通ってそこで何かして
疲れて会社出てビール飲んで、よろよろしながら22時ぐらいに家に帰って倒れるように寝る…
全くそんなイメージでした。
僕はそれが普通なんだと思っていたんです。

そして20歳ぐらいまでは、デタラメな道でしたが
それなりにまともな進学コースを歩み、何となくレールに乗ってそうな人生を歩んでいました。
でもある日を境に、フワッと目の前のレールは消えてしまい、僕の中の普通の社会人は夢物語みたいになりました。
それは相当にショックで堪えました。
しかし思えば、レールも普通の社会人も自分が勝手に期待して、必然的にそこにあると思い込んでいただけの妄想でした。
おまけに人生計画と呼ぶにはあまりにずさんな、笑ってしまうようなトンチンカンな将来像でした。
とはいえその妄想のレールは、全くの嘘でもなかったと今でもよく思います。

どこかで何か一つ違えば、僕はもしかしたら普通の社会人で
今の僕が全く知らない誰かと、毎晩毎晩飽きもせず与太話に興じていたのかもしれません。
それはそれで、今の僕にとっては全く知らない日常であるはずですから、少し覗き見てみたい気がするんです。
でも、きっと普通の社会人をしている僕は、今の僕のような到底社会人とは呼べない情けない生活に憧れるんだろうとも思います。
お互いに無い物ねだり、といったらそれだけの話ですが。

でも、変な道に転がってしまったとはいえ
こんな僕でも20年近く学び舎の中で「普通の社会人の真似事」をしてきたわけです。
お陰でなんとなく自分が普通の社会人をしている姿は想像出来てしまうもんですから、また少し不思議な感じなのです。
逆だったら、多分イメージ沸かなかっただろうと思います。
僕が今、自分がもしアイドルや芸能人だった場合の生活を全くイメージ出来ないように。
ですから、普通の社会人というのはある意味すごく特殊な環境なんだろうと思います。
唯一、学生時代に骨の髄まで染み込ませられた社会人像ですから。

僕は歌詞とは違い、その道を選ばなかったのではなく選べなかった訳ですが
それでも時折、自分がその道を歩んでる姿や、その結末に思いを馳せてしまいます。
毎日顎が痛くなるぐらい誰かと喋っていたんだろうか、なんて思うと結構羨ましかったりするんです。
でも、高校は週4日は遅刻していた僕ですから「どーせ会社も遅刻して怒られているんだろうなぁ…」と思うと
だらしない生活リズムでも怒られないこの駄目な感じが、僕には丁度良いのかなと改めて思ったりしています。



仕事と休息
2013.10.16
彼女さんが新しいCD『いつかの水たまり』をM3 2013秋にて頒布するとの事で、先日早速その収録曲を聴かせてもらいました。
彼女さんは仕事しながらの作曲活動で、新曲をバンバン作れるような環境ではない為
新曲を聴くのは毎回すこしぶりといった印象なんですが、その度その進化に慄いています。
今回ももれなくそうでしたが、今回は殊更に、一段飛ばしたかのような進化をしていました。
感服です。
その場でバタバタしてぐるぐる回転して、前に進みやしない自分が恥ずかしくなる勢いでした。
素晴らしい出来です、是非聴いてみて下さい。


休む事に対する意識。

最近、生活のあらゆる事が「仕事」を中心に回っていて
自分とは無縁だろうなぁなんて思っていた「仕事中毒」を感じるようになりました。
以前も書きましたが、料理、食事、お風呂、歯磨き、洗濯、片付け、食器洗い…云々。
そういうあらゆる行為が仕事の息抜きであり、それらを行うタイミング・消耗時間は完全に仕事に依存するようになりました。
仕事が修羅場を迎えたら、それらのほとんどの時間が減っていきます。

因みに、一番堪えるのは身体を洗うのを放棄する場合です…
「宮子」「回れトロイカ」の終盤はそういう事態に陥りましたが、本当に参りました。
気持ち悪い全身が痒い、気色悪い汗がでる等々、不愉快極まりないのです。
しかしそうでもしないとどうにもならないほどに追い込まれたら、選択肢もありません。
身体を洗うのを省くのはそれほど不愉快なんですが、それでも徹夜は滅多にしません。
寝ないとペンを持つ手はぶれますし、僕の場合、寝ないと思考回路がどんどん「手を抜く」方向に走ってしまいます。
睡眠大事。

…話が逸れました。

何度か書いている気もしますが、仕事を中心に生活が回ってしまう原因は何となく察しがついてます。
もし自分がサラリーマンならば、僕は最低レベルのサボり魔だったろうと思います。
やりたくない事は本当にやりたくない、そういう逃避の結果が今の僕だと思っています。
その思考が、逆に自分を仕事に追いやり続けています。
というのも、自分が逃げずに続けられる唯一の仕事を見つけた訳ですが
「少しサボれば二度とその仕事はやらせてもらえないかも知れない」
そんな恐怖心がある為、サボらずせざるを得ないんです。
そして映像という職業は、1秒長く仕事をしたら1秒分良い結果を得られる仕事なんです。
その事実を知ったらもうどうしようもありません。
必死こいて、せざるを得ません。
他の事なんて一切したくなくて必死なんです。

しかしそうはいっても、心も身体も有限です。
毎日毎日酷使すれば磨耗し続けるのです。
擦り切れた結果は、いくらかの先人らに学ぶ事ができます。
それは「数年単位で療養を取る」という途方も無いものです。
そうでもしないと、一度擦り切れたものは回復しないという事です。

「自分の心身は特別丈夫で、先人らのように擦り切れたりしない!」
と言い切るなら試してみるのもありだと思います。
僕はそんな自信全然ありません、むしろあっさり切れると思います。

だから、休むのです。
仕事の為に、休むのです。
仕事を必要以上に休まず継続し続ける為に、小休止をとるのです。
体調管理とて同じです。
仕事を不必要に休まない為にも、健康を維持するのです。
その為に、多少手間取ろうとも身体を動かすのです。

そうでも思い込まなければ、作業時間を失う恐怖に負けてしまいます。
無意味に休んでしまった罪悪感に苛まされ、無駄に心をすり減らしてしまいます。
そうなれば結果は言うまでもなしです。
それを避ける為、僕は必死に「仕事の為に休む」と繰り返し言い聞かせています。

…この思考、駄目人間なんだろうなぁと思います。
そして何より、心のどこか奥底で「仕事に捧げ続けるこの心意気、ちょっと格好良いだろう!」とか思ってしまっている。
この僕の思考がいかに駄目なものか、多分まだ自覚していないんです。
自覚出来なければ、このままずるずると本格的な仕事中毒になっていくんだろうなぁと思います。

同じように仕事中毒の人が海外に行った際
「私は仕事をとても頑張ってるよ」と話すと、みな無関心だったそうです。
仕事は神聖なものだと思いこんでるのは、一部の地域の人だけなんでしょう、多分。
他所に行けば仕事なんて、大人に科せられた義務でしかないんです。
そんなものに人生捧げてるなんてお前は馬鹿か?という反応なんです、恐らく。
多分、そっちの感覚の方が良いんだろうと思います。


…とか色々言ってみても、やっぱりこの仕事をし続けたい。
楽しいんです、正直とっても。
毎日がどんどんそれだけに侵されていっても、僕はそれを笑いながら困ったなぁって言ってるんです。
それだけにひたすら没頭できる事が、なんだかすごく嬉しくて。
大学時代、妨げになるやりたくない事が沢山あってとても嫌だったから
それしかない今は、色々しんどい事はあってもやっぱり凄く楽しい。
こんな風に感じているから中毒になっちゃうんですね、きっと。
僕は本当に幸せもんです、こんなヘタクソで何も出来ないのに、やりたい事をさせてもらえているんです。
ありがたい。

…なんだか最後は自慢話になってしまいました。
ちょっと前は「なんて下卑た仕事だ!」なんて言っていたのに、調子のいい話もあったもんです。
仕事中毒だなんて衒ってみてないで、目の前の課題にもっと必死にならないと!



無数の意思の集合体
2013.10.08
建築学なんて造詣も全く無いのでひたすらにただの妄言ですが。

幼い頃から、未来の建築物の形状というのに興味を持っていました。
長い歴史の中でゆるーく変化を続け、急激な国際化の流れで地域ごとの特色は形状にほとんど影響していないように見えてきた昨今。
それを退屈だとも思っていましたが、均一化のかなり進んだ今後、建築物はどういう形状に変わりゆくのだろう…
というのをぼんやりと考えていました。
何となく漠然と、一人の人間や一つの組織の意匠が大胆に取り入れられたものになるんだろうと思っていました。
iPhoneのように、パッと時代の流れを決定してしまうような何かが出てくるんだろうと思っていました。
或いはマトリックスのように、その後の一つのジャンルの流れを組み替えてしまうような。
しかしそれはどうも、寿命の短いデバイス的なものや、極端に想像力に依存したようなものに限るようで
建物のようなスパンの長い、極めて現実的な視野を求めるものに関してはそうではなく
時代を反映した無数の深層心理に因るのかなぁなんて最近思います。
というのもいつからか、近未来の建築物のデザインというのは随分とみな同じ方向を見ているように感じられたからです。
もっとこう…ぶっ飛んだ建築デザインとか沢山あった気がするんですが、段々と一つの方向に収束していったかのようで
うねりうねってぐちゃぐちゃになって、最終的に一つの像に辿り着いていく様がなんとも生物のようで面白いなぁなんて思っていました。

そんな感じの、無数の何かによる構成物。

アニメーションを作り始めてから、僕の人間観は随分変わりました。
ある種の宗教染みた話ですが…
アニメーションの根源、アニミズム即ち精霊主義というものを認識した時、その考え方を髄分とすんなり受け入れられました。
あらゆる物事には精霊が宿っており、人はそれを敬わなければならない。
限界まで適当に説明すると、そんな感じです。
日本の原始宗教、神道も同じ根っこにあるため、多分日本人には共感のしやすい話なんだろうと思います。
それをあれこれ考えながらアニメーションを作っていると、自分の存在の特殊性というものがかなり消え失せ
言ってしまえば蚊や苔と自分の存在になんら差はないように感じるようになりました。
…命を軽視しているわけではないですよ、自分が命を軽く扱いながら「私は蚊と同じです」なんて言ったら、蚊に怒られます。
奴らは毎日命がけで生きていますし、こっちも痒くなりたくないから必死で応戦します。
お互い自分の形状を保つのに必死になって、そのうえでお互い対等だと感じているんです。
兎角、そんな調子で公園のベンチなんかに座ると、自分が空間に同化したかのような心地良ささえ覚えるようになりました。
なんかこう…自分が蚊や雑草、或いは石ころか、蟻でも良いんですが。
そういうのが当たり前にそこにいるのと同じように
同じ存在として当たり前にそこに居座れているような、そういう変な感覚です。
なんでこんな変な思考回路になってしまったかちゃんと理解しているわけではないんですが多分
アニメーションなんか作り始めたせいだと思います。

そんな変な考えを携え始めた時に
「人というのは原子を何億年も放置したら自然発生した奇妙な何かだ」という話を見て
同時的に質量保存の法則的な基本的な科学概念も頭を巡り
「あれ、僕は僕自身か?」と、急に哲学的な何かが過ぎりました。
考えてもみれば当たり前で、僕は自分の体重、その質量分の原子の集合体でしかないんですよね。
そしてその原子らは絶えず循環し、去年の僕を構成していた原子はどこかへ放出され
別の誰かの身体の一部、或いは別の生き物、別の物体、もしくはそのまま漂っているのか…
兎角どこかにいるはずなんですよね、おそらく。
更におまけに、人はもの凄いスピードでその原子ら構成物を入れ替え続けるわけです。
という事は、僕から放たれた原子を、今現在持っている生き物が世の中には沢山いるはずで
同時に今自分のこの身体を構成している原子は、別の誰かから受け取ったもので間違いないわけです。

するとあれ、僕は僕自身を持っていない。
無数の原子を、周囲のあらゆるものと共有しているだけで、確固たる僕というものがない。

なんて思うと、周囲の環境に対して妙な畏敬の念を覚えるわけです。
目の前を飛ぶ蚊は、「元・僕の原子」を持っているかも分からんのです。
僕の身体を構成する原子の中には、「元・蚊の原子」だったものもいるのかも分からんのです。
すると益々、自分が空間に溶け込んでいくのです。

更にそんな折、こんな話を見ました。
「記憶の多くは細胞レベルに依存している可能性が高い」
脳みそだけであれこれ記憶しているわけではない、細胞でも記憶しているという話です。
するとまたややこしくなります。
個体差って、無数の原子の記憶がごちゃごちゃになりながら、一つを選んだ結果の連続体のように思えます。
好き嫌いはそうして生まれるんじゃないかなんて考えたら面白いじゃないですか。
そして更に宗教的に、僕が死んだ時、僕は僕を構成した原子を一気に放つわけです。
するとその原子らは須らく、別の誰か、別の何かに取り込まれていくんでしょう。
するとおや、輪廻転生って嘘ではない。
「僕」という経験を持つ原子が、誰かの身体を構成し、無数の原子の中で一つの意思として作用するならば。

なんて延々巡っているような、そんな不思議な人間観をアニメーションを作り始めてから持ちました。
…人間観なんて言うから余計宗教ぽいんですね。

なんて延々巡っていたら面白いのになぁとか、勝手な妄想を広げていました。
…うん、こっちだ。

とにかく。
日々迫られる選択に疲弊してきた時に、この変な思考がほんの少しだけ役に立つと思っています。
自分が自分をコントロールしているとか
自分は自分のものであるとか
確かにそれはそうなんですが、もっとこう
自分を構成する無数の原子のうねりによって不可抗力的に選択しながら生きているんだ。
自分で自分を選んでるなんて大層な驕りだ。
…とか思うと、随分と他力本願かつ大雑把な話でとても気楽になれますよ。
少なくとも僕はそうです。

自分で選んだ?
まさか。
今の自分を構成する原子にはそれしか選択肢が無い、だから仕方ない!

…こんなとんでもない調子で、僕は今日も適当に生きています。



変更
2013.10.02
泣きたい。

先日公開した改装後のサイトトップが、残念なぐらいに崩壊していると方々から指摘されて
一生懸命あれこれ調べてやっとこさ搭載して、誇らしげに自画自賛していたパララックス効果を全放棄しました…泣きたい。
でも場合によって、メニューが表示されないという致命的なバグを生じていたので止む無しです。

そしてすごくシンプルにしました。
更新情報も微妙にいじりまして、「更新後はボタンが光る」から「更新後はNEWと表示される」に変更しました。
お洒落ぶりました。…お洒落かどうか分かりませんが。
一部、IE6?とかの古いブラウザで崩壊するようですが…とりあえず9割方の人には閲覧可能な状態だろうと思います。
多分。多分…多分。
本当にウェブデザインの世界はしんどいですね…
ブラウザによって、デバイスによって、ディスプレイ解像度によって全部見え方変わるんでしょうし。
どれで見ても同じように見えるサイトを作るのはとても難解な事なんだろうと他人事のように思うばかりです。
とりあえず形にしてしまえば大体同じに見える映像様様です。
ぬるい世界で助かりました。
…嘘つきました。


「回れトロイカ」、こちらは好評なようで流石は椙本さんです。
放映後、Google先生で評判を覗こうと思い「回れトロイカ」と検索をかけようとしたら
「回れトロイカ youtube」「回れトロイカ 動画」と予測に出てきて吹きました。
…テレビで見ましょう。


一昨日ぐらいから本格的に次の仕事に移りました。
今度はウェブ上で視聴出来るものになるはずです、たぶん。
また完成したらどやぁーするので、お付き合いいただけたら嬉しいです。
しかし早速、自分の無能さ加減を痛感しています。
…チクショウ頑張る。


サイト更新と諸々
2013.09.30
先々週ぐらいの話通り、サイト更新しました。
主に改装したのは、トップページとCSSです。

トップページは見ての通りです、ガラッと変えてみました。
少々動作が重いかも…知れません。
重かったら教えて下さい、なんか対策考えないと。

僕のイメージでは基本的に、このHPは一度訪れても「ふーん」といって閉じられるサイトだと思っています。
その「ふーん」を「おぉ!…ふーん」にしたいなぁとずっと思っていました。
ほんの少し、驚かせてみたいのです。
そこで、最近よく見かけるパララックス効果を大胆に取り込んで、飛び出す絵本的な面白さを出せればなぁなんて思いながら新築しました。
…そんな雰囲気、出てるでしょうか?
個人的には少しは出たんじゃないかと自画自賛したいところなのです。
だってほら、片目で見てみて下さい、そしてスクロールバーぐりぐりしてみて下さい。
ね!3DTVよりもずっと3Dでしょう!
ちょっとワクワクしますよね!…しますよね?
僕は自分で作って一人でずっとスクロールバーぐりぐりしてました、楽しい。
そんな楽しさが、たまたま訪れた人にも伝わったらなぁなんて期待してます。

が!
こういうゴチャゴチャした事すると、ちょこちょこ訪れる人には大迷惑です。
ちょこちょこ訪れる人の代表であろう僕には大迷惑です。
ので。
利便性を犠牲にするのは論外です。
しかしデザインも捨てられないので、そこはしぶとく調整したつもりです。
サイトを開いてからメニューを選ぶまでの時間差が、0,○秒を超えると鬱陶しい!みたいな試行錯誤をしてました。
一応、現在の状態が僕にとってのぎりぎりの許容範囲です。
でも一点、ごめんなさい。
更新情報を見るのは面倒になりました。
以前まで、スクロールして下にいけば羅列してありましたが、今回からクリックして開く仕様にしました。
…デザインの都合で。
これがまた、鬱陶しいのです。
主に僕が嫌なので、あれこれ試行錯誤して「更新後48時間だけUPDATEボタンが光る」という仕様にしました。
おまけ、更新直後が一番輝いてて時間経つごとに光が弱くなるようにしてみました。
ですから光ってなかったら「更新してないから確認不要」という事です。
しかしこれでもやっぱり不便ですね…デザインと利便性とを両立させるのは難儀です、痛感しました。

あと、地味ですが当ページ彷徨日記のタイトル部分変えてみました。

もう一つ、CSSについて少し。
9月頭、母親から「あんたのサイト可笑しいよ」と送られてきた画像を見てみてびっくりでした。
サイトデザインが完全に崩壊していました。
調べてみると、どうにも古いIEブラウザはCSSの一部設定に全く対応出来ないらしく
多分にそれに起因する崩壊のようでした。
いわゆるfloatの設定です。
にて、その設定をすべて書き直しました。
いやはや、地味に厄介でした。
…ウェブデザイナーって大変そうだなぁと、改めて思った次第です。


サイトの話はこんなところにして。
これまた以前書いてました、不得手な仕事が先日ようやく終りました。
サイトにも書きましたが、7月から3ヶ月間みっちり「回れトロイカ」というアニメーションの作画をやってました。
10、11月定期的に放映されるようです。
沢山流れると思うので、是非とも見てやって下さい。
映像作家椙本晃佑氏の、限界まで詰め込んだであろう密度の高いアニメーションを堪能出来るだろうと思います。
もし、観ていて「今の画なんか下手糞だな」と思ったらそれは高確率で僕の作画です、大目に見てやって下さい。
そんな感じです。

それで、何を「不得手だ」と喚いていたかといいますと…
僕は驚くほど他人の絵の模写を避けてきた為、人の絵を描くのがめちゃくちゃ下手なんです。
人生で一番多く他人の絵を描いたのは小学生の頃の落書で…とか多分そんなレベルで描いてないんです。
というのも、人の絵を描くと自分の画力の低さが際立つので、その事実が嫌で逃げ回ってたんです。
が、今回大量に人様の絵を描け!となり、結果僕はひたすらのた打ち回っていました。
毎日「ほらみろ全然似てない、お前絵下手だな!」って自分の描いた絵に言われてる気分でした。
「うるせー知ってるよ!」なんて口答えしつつ、全く不甲斐無く悔しい時間でした。
でもお陰で、改めて身の丈を確認できたような気がします。
そんな訳で仕事は終えたものの、ものすごい大量の課題が発生してしまいました。
どうにかせねば。

兎角、そうやって悪戦苦闘を重ね、そんな調子だったから作家さんにも随分と苦労をかけつつ
どうにかこうにか完パケまで辿り着きましたアニメーションです。
子供たちにわーきゃー笑ってもらえたら至高だなぁなんて思いつつ、多くの人に観てもらえること楽しみにしています。
よろしくお願いします。

あとはいつものパップです。
相変わらず音楽素敵でした。


積み重なってた二つの制作を終えて一息つきたい所なんですが
あと三つ、無計画にも休みを挟まずに受けた制作を
どががががああああっと乗り切って、早く昇天したいです。
もうひと踏ん張り!


布教と、サイト少しいじります
2013.09.17
突然ですが、近々サイトのトップページを総入れ替えする予定です。
気持ち的には今月末…?
現在のトップページは元々、諸般の事情で仮置きとして用意したものでした。
…が、ずるずると半年以上放置してしまいました。
お店の入り口だというのに何を考えていたのだろう…。
普通、入り口が仮設状態のお店に入ろうとはあまり思いませんよね。
僕なら相当に躊躇います。
でも何だかんだ、数はともあれカウンターの数字は回っていました。
こんな入り口のお店にも関わらず飄々ときてくれていた人には頭上がりません。
ありがたいです。
あと、トップページ総入れ替えなのでこのページのリンク位置も変える予定です。
トップページのあんな位置にリンク場所あったら、間違えて入ってしまうかもしれませんし。
誤って入った先が毒々しい吐息で満ち満ちた日記ページなんてかわいそうですし。
とか色々思うところもありまして…
またサイトのどこかに、隠しリンク扱いで設置する予定です。
時間ある人はぜひ探して下さい、僕は全力で隠すつもりです。
時間ないけどたまに偵察させろ!という人は、このページそのままブックマークして頂ければ。
読みたくないけどトップページにあるからつい開いてイラッとしたわ!という人は、これを機に忘れ去って下さい。
…なんか矛盾してるんですけど、たまにありますよね。
腹が立つけど何故かみてしまうもの。
それはそれで申し訳ないので、以前書いてた毒対策も含めての移動です。
そんな感じです、よろしくお願いします。

しかし何故このタイミングで改装欲求が破裂したのか考えてみますと
多分に忙しい時こそ部屋の掃除したくなるのと一緒です。
えへへ、いまこうして日記書いてるけど今月末納品が2つもあるんだ、もちろんどっちも未完成さ!
因みに来月頭の納品物もあるのさ、未着手さ!
…嬉しい悲鳴も忘れそうな勢いです、忘れちゃダメだけど。
でもこの波を乗り越えたら絶賛ニートする予定なので、あと一踏ん張り頑張ります。


昨日、怠ける兎を横目に亀さんがガメラと見紛うスピードで飛んでいきました。
流石でございます。
度々紹介してますががめさんの新作です。

義足のMoses(Youtube)

ううん、実に彼らしくて愛らしいアニメーションです。
いいなぁ、素直に羨ましい作品です。
床を這うシーンは不思議とディズニーを彷彿させるものがありましたw
今作、イベントやSNS等々でとても賞賛されたようで、羨ましくも嬉しいところです。
彼は過大評価だと言ってましたが、寧ろこれまでが過小評価だったと僕は思っています。
ようやく作品のクオリティに対して正当な評価が付こうとしているんですから、胸を張ってほしいところです。

なんか、ライバルだと認識した相手の事は良くも悪くも色んな事を知るせいで
数多の同業者の成功よりもライバルの成功は嬉しいもんですねw
いや勿論、凄い一発をかまされて「ナニクソ!」って気持ちも多分にあるんですが…
真っ当に殴り合いたいと思うからこそ、作品の質に見合う評価を得ている事はとても喜ばしいです。
…他者の作品の「質に見合う評価」なんて、僕には僕の主観に合ってるかどうかでしか判断出来ないんですけどね。
とかあーだこーだ言ってる間に、見えない彼方まで置いていかれそうです、頑張らないと!



布教日記
2013.09.04
諸々のスケジュールが破綻していく様を他人事のように見ている毎日です。
どうすんだろうこれ。
…いや、「やり終える」しか選択肢無いんだけどさ…。
…まぁ生きてればどうにでもなる!
そんな楽観主義だから、方々に不安を撒き散らしながら今日もどうにか生きています。


近況はその辺に、布教日記です。


先日聴いた…もう一月以上前の話の気がしますが、知人の手掛けた音楽だそうです。

八月の天空の城(特設サイト)

タイトルからお察しの通り、「天空の城ラピュタ」を題材にしています。
不得手な作業でヘロヘロになっていた先月、何気なく聴いていたらスーッと耳に入ってきて、とても心地良く癒されました。
暑い夏に、日陰で涼しい風を受けたような気持ちよい歌です。
あと、コンクリートモンスターって言葉が何だか好きです。
自分が肯定的に受け取れていなかったものを、自分には想像すら出来なかった視点で美しく捉えている様を見せ付けられると
何とも言い難い喜びを覚えますよね、素敵でした。


ここ数日、再びgobelinsにしてやられてます。
僕なんかよりずっと自由に「アニメーション」やってるなぁと思わされました。
格の違いを痛感せざるを得ません、5流ぐらい差を感じます。
最近公開された2本、どちらも素晴らしかったので是非。

Myosis(Youtube埋め込み)

扱っているテーマはよくあるやつ…だと思います。
ですがビジュアルと音楽とがどちらもハイレベルで合致してて、とても力強さを感じました。
前半はスケーリングがしっかりしているんでしょうか、映像に説得力があって格好良い。
それから、2分7秒あたりのカットが本当に神々しい…構図とか色味の調子でしょうか、よくわかんないけども。
そしてそこから、スケール放棄してのアニメーションならではの躍動感!
アニメーションはこれがあると本当に心地良い、欲を言えば足掻くシーンをもう少しだけ観ていたかったです。

FLOATING IN MY MIND(Youtube埋め込み)

チックショウ可愛いな!
なんか老夫婦を出されると無条件に甘くなってしまうこの頃です、オチも個人的な価値観としてはこれがベストだなぁと思いました。
こちらもビジュアルと音楽と、どっちも本当にツボです、良いなぁ。
キャラクターデザインも可愛くて面白くて良いですよね、女性の胸はそれどうなのって思いましたが。


良い作品に触れたら励みになるってもんです。
頂いた励みを頼りに、あともう少し骨折っていきます。ボキボキー


(追記 2013.09.12)
何となく、「スケーリング」という言葉を使いましたが後々調べてみたところ
そんな言葉、アニメ業界にはなさそうでした。
どうやら脳内言語だったようです。
僕の中では「パースの整った空間内で、本来あるべき比率でものを描く」ことを勝手にスケーリングと言ってました。
言葉にし直してみると「パースがしっかりしている」で良いような気がしました…。


変化
2013.08.25
ひとつきぶりです。
ここ二月ほど、とても不得手な仕事に従事しており日々心をバキバキと折りながら生きております。
内容については来月末ぐらいにお伝え出来ればなぁと思います。
その時胸張って「一生懸命やりました」と言いたいが為だけに、バキバキの心と共に指引きずりながら骨折り中です。
あともう少し、一片の心だけでも残るよう祈りつつ…。


夢や希望、可能性、そういうものが一つずつ潰えていく歳になりました。
20年近くに及んだ学生時代に視た、おぼろげな社会像や曖昧に捉えていた個の持つ許容量。
それらが突然に目の前に判然と現れ理解と承知を促され、夢や希望に満ち満ちていた瞳の無意識的な抵抗も日々弱まり
忙しく過ぎる毎日に飲み込まれ次第に諸々を忘れ去っていく、多分そんな年齢です。
そんな年齢だからでしょうか、先日聴いたBUMP OF CHICKENの「Stage of the ground」が妙に響きました。

高校の頃に初めて聴いた曲だったと思いますが、その当時は特別思い入れる事もありませんでした。
音楽として聴くと、今も当時と変わらず「BUMPの曲だなぁ」という感想が一番に出て来てしまうのですが
歌詞については捉え方が大きく変わりました。
恐らく当時は、歌詞の一片一片にしっかり共感出来るものを持ち合わせていなかったのだろうと思います。
でも今になって端々の言葉に妙に共感し、やたらと元気が出る歌に感じられました。
それでその勢い余って、先日公開したGIFアニメを作ったのです。

歌詞並べてあれこれ書くのがなんだか恥ずかしいのですが…

同曲の歌詞の「君をかばって散った夢が、今の君を応援してくれている」というニュアンス、先ずこれが当時はピンと来ませんでした。
高校生の僕ですから、散り散りになった夢なんて碌になかったんです。
砕けた何かがあったとしてもそれが支えになっている実感など無かったもんですから
多分にお洒落な歌詞だなぁとしか思っていなかったんだと思います。
今はあれやこれやと広げた空想を、極めて現実的な手段で押し殺していかなくてはならない歳です。
まずはスポーツ選手、辞めたら宇宙飛行士!最後には大統領になる!
…なんて希望いっぱいの夢は、ここまでの自分に鑑みてあっさりと否定出来てしまいます。
学生時代には「何とかなる」と言い切っていたそれが、限りなく厳しくなりました。
そうなって初めて、色んなものが手から零れ落ちていくのを痛感しました。
でもそうやって零していかないと守れない希望もあり、零したのが必ずしもただの苦痛ではなかった事も今になってよく分かります。
そんな感覚を覚えて初めて、その歌詞をスッと受け入れられました。

もう一つ、寧ろこっちが強烈でした。
散々ここで「凄まじいぼっちです」と躊躇い無く書いていますが、それに関連し。
孤独を痛感してから、「孤独じゃないよ、俺らいるじゃん!」という慰めほど空しいものもありません。
孤独を嘆く人は「君らさえいない」と感じてしまっているから孤独を覚えているのです。
しかし実際に大体の場合、孤独に対する応えはそこに落ち着いてしまっているように思います。
そうこう思っているうちに「もっとしっくり来るものは無いのかなぁ」なんて漠然と思い始めていたところ
この曲が「孤独の果てにも、沢山の出会いと別れを重ねた自分の顔はそこにあるだろう」と歌うのです。
僕は妙にこれに感服してしまいました。
当時はこのニュアンスにもピンときてはいなかったのですが、今はなんだかとてもよく分かるんです。
とても当たり前の言葉なんですが、ひたすらに自分だけが残り続けていく今になって
妙に「あぁそうだよなぁ」と感心してしまいました。

そんなわけでBUMPの曲にとても励まされてしまい、ここしばらく高校以来のBUMP OF CHICKENブームです。
高校終盤から「BUMPはいつまで経っても"夢"とか"孤独"、"優しさ"とか"生きる"とかばっかり歌ってるなぁ」とか
知った風に聞き飽きた気で居ましたが、僕が馬鹿でした。
人生なんて幾つになってもそればっかりです。
哲学的な思想、国際的文化的な問題提起、奇異な性質、特殊な精神状態…そういうものよりもずっとシンプルで本質的でした。
僕は長い事、背伸びしたがりの中学生のような感覚で飽きた気でいたようです。
いやはや、僕は四半世紀生きようと大人になんて全然なれちゃいないようです。
多分これからもきっと、事ある毎に自分の拙さを思い知るのだろうなぁと構えつつ今日もBUMPを聴いています。



冒頭のほうに「夢や希望が潰えていく歳」と書きましたが、僕はこの発想が結構嫌いです。
「50歳になってから初めて執筆活動を始めました」とか、そういう話が好きです。
でもそういう前向き過ぎる話は実感沸きにくかったりするものだと思います。
…が、僕の爺様がそういう前向きな話を色々と体現しているお陰で、僕はそれらをとても現実的に捉えられるのです。
そんな誇れる爺様の話を少し…。

爺様、齢90を超えているため、がっつり戦争を体験してきた世代です。
そんな戦争のお陰で最終学歴「小卒」です。
しかし生真面目な爺様、そんなものは物ともせず戦争終えて間もなく国鉄に入り
丁稚奉公みたいなところから始めてガツガツ仕事をこなし、終いには西国鉄のトップ2まで上り詰めたというのですからびっくりです。
色んなことを自ら学びこなしたというのです。
そんな調子の爺様ですから勿論、知識も豊富、頭も切れます。
僕はそこそこ名の知れた大学を出たつもりでいますが、小卒の、90を超えた爺様に、知識量も頭の回転も敵う気がしません。
実際にちっとも敵いません。
退職してからも、何か始めようと思ったらしく結構な年月、習字を習っていました。
やはりこれもビシバシこなし、今となっては驚く達筆です。
そんな爺様が、仕事はどうだ、体調はどうだと心配し、たまに僕に手紙をくれます。
ありがたや。
その手紙の文章がまた、整然としており素晴らしく読み易いのです。おまけに達筆。
僕の書く支離滅裂なこんな文章、恥ずかしくてとても見せられないぐらいに。
更には僕の下手糞な字を読まれた暁には、穴に入りたいぐらいです。
やっぱりちっとも敵いません。
そんな爺様にずーっと付き添った婆様が、一昨年他界しました。
爺様も当然随分堪えたようでしたが、それからというもの婆様がいないからと台所に立って自分で料理を始めました。
齢90を過ぎてから自炊をしようというのですからまた驚きです。
さすがに三食全てはしませんが、それでも凄い。
20そこらのぺーぺーの僕が自炊を面倒臭がっているこの様。
恥ずかしくて死んでしまいそうです。
こんな僕が90になったらどうなっているやら…不安ばっかり山盛りです。

兎角、こんな具合で爺様は歳なんて物ともせず色んな事をテキパキこなします。
そんな様子を間近で見てしまったら、「歳だから…」なんて口が裂けても言える気がしません。
もし口にしようものなら爺様に「情けない、下らない」と一蹴されるでしょう。
お手厳しい。
でもこんな素晴らしい模範的な人が身近に居て本当に助かりました。
容易く情けない事言ってられないなぁと思えますもんね。
…最近弱音多めでしたが。
歳なんかに気を取られず、しっかりやっていきたいなぁと思います。

とりあえずは、眼前の事をテキパキこなしていきたいところ。
心折れてる場合じゃない、もっと骨を折らないと。


「風立ちぬ」を観てきました。
2013.07.21
愛すべき退屈さと愛おしい人々で溢れた、とても綺麗な映画でした。


情けない人
2013.07.19
つくづく「情けない人だなぁ」と思います。
書き終えた時は、言いたい事を吐き出し切って溜飲を下げたつもりでいるのですが
翌日以降読み返してみれば、なんともまぁ恥ずかしいやら情けないやら、ここには酷い日記しかないなぁと感じています。
特にここ数ヶ月、その酷さに拍車がかかるばかりで…ここら辺で一度、どうにかしたいなと思います。
具体的な案がある訳じゃないんですが…。

先日の記事も、自分の仕事に対する疑念や天狗に成りがちな自分を精一杯謙らせたつもりでいたのですが
読み返せば、同業者に対して「僕と同じで君達も全員下らないないからな!」と言わんばかりの勢いです。
これは酷い。


僕はよく、自分のしている事に対して懐疑的になってしまいます。
あちこち身体に不調を来たすまでペンを握って、何も結果がついてこないように感じて空回りしている現状に
「一体全体、自分は何がしたい」と思うと同時、お先真っ暗な日常が僕の唯一の強みである猪突猛進に影を落とし
自分をどこかへ逃がしたくてしょうがなくなります。
もしここで逃げ道があれば、僕ならすぐ雲隠れするでしょう。
格好悪いですけど、たぶんこれが正しい僕なんです。
でも「いつまでもそれじゃあ駄目だ」と、僕なりに僕の逃げ道を尽く潰してみました。
「逃げたくなる原因をよく見つめて、逃げずにぶつかってどうにか解決しなさい」と数年かけて自ら仕掛けたのです。

ところが、その結果が現在のひよりきった精神状態です。
口を開けば要らん飛び火をしてしまう情けなさ。
でも素直でもないのでただムスっとしている不甲斐無さ。
図体は大人になったのに、幼稚な精神でくたびれた趣味しか無いこの捻くれよう。

こんな風に心がひよりきった時、僕を救ってくれるのはいつだって娯楽でした。
漫画を読んで励まされ、映画を観て心を打たれ、音楽を聴いては心踊り…云々。
それは今だって何も変わらないのです。

今日、ここ数ヶ月無かったぐらいに気分が良いのです。
というのも高校時代に何十回も繰り返し聴いた音楽を、ふと聴きたくなって聴いてみれば滾ること滾ること。
5分程度のその曲を10時間ぐらい繰り返し聴いていました。
自分の情けなさをぶちのめしてサッサと前に進みたくなるほど清々しい気持ちでした。

こういう、不特定多数の人を元気に出来る力というのは凄まじいものがあります。
だから僕もそれに憧れて、この世界に来たのです。
でも、その力が自分の作るものにもあるのかと言われると途端に何も言えなくなります。
大した物を作ったという実感も無ければ、胸張ってその素晴らしさを説く自信もなくなってしまいます。
そんな調子にもなれば、自分の作るものにたいし訝り「単なる時間泥棒じゃないか」とか思ってしまうのです。
見る人にとっても、僕にとっても時間泥棒なんじゃないかと思えてしまうのです。
でも悔しいですが、現状はきっとそうです。
それをどうにかしたくて足掻いているのに、道中でその事実に打ちのめされているのです。
ほんと、格好悪いですね。

図体はそれなりにオッサンになってきたのだから、もっと図太く構えてやっていかないとなぁと思います。
素晴らしい音楽を思い出したのだから、きっともっと頑張れます。
とはいえ、まだ些か陰りも残るところ。
だから明日、「風立ちぬ」を観にいって、自分の小ささを思い知ってこようと思います。
数年待ち続けた映画、楽しみです。

…嘘です。
正直、とっても怖いんです。
僕が居るのは隅の隅とは言え、同じ界隈の化け物の、きっと最後の作品です。
もしかしたら自分の中のしょうもない陰りを取っ払って猪突猛進の勢いを増す切欠になるかもと期待もしているのですが
同時に、尽く打ちのめされてしばらく立ち上がれないんじゃないかとかも思うのです。
…大丈夫だろうか…。
兎に角怖いけど、行ってきます。
たぶんろくに何も書けないけど、観てきたらネタバレにならない感想でも…書けたらいいなぁと思います。
どんなものを見せられるやら…度肝を抜かれるのだろうなぁ…あぁ。


傲慢と必死と絵
2013.07.17
なにやら先日、どこぞのコミュニティで「歌い手」と「絵師」とやらの喧嘩があったようです。
自分の知らない世界や苦労への想像力の欠如が祟った話題のように思いました。
あと、少し驕りを感じなくもないところでした。

僕がよく陥る変な錯覚なのですが、芸術や創作活動に類する事をしていると
途端に自分が大きくなったような奇妙な感覚になる事があります。
多分、身近に「すごいね!」と褒めてくれる人がいるからではないかと思うのですが
こういう行為をいざ仕事にしてみると、実のところ見っとも無いったらありゃしないんです。

というのも…
「友人は芸能人」みたいな意味不明な手前味噌になるのかも分かりませんが
僕の知人友人はたいそう出来がよく、見渡してみれば
地方公務員や警察官、石油を掘ってたり一級建築士だったり医者だったり、裁判官や弁護士や。
ちょっと遡れば姉貴様は大臣と知り合いだったとか、そんなんなんです。
この国の社会基盤を支えるのに誰一人として欠けないような、そういう立派な仕事をしている人ばっかりなんですよ。
そこに混じって「僕、絵描いて食ってるんですよ」って下卑た笑いをしながら言わざるを得ないのが、どれほど恥ずかしいか。
こういう職業は寂しい言い方をすれば、「居ても居なくてもどーでもいい人の溜まり場」なんです。
学生時代から薄ら分かっていた事ではありますが、いざ仕事にしてみるとその現実が明々白々と迫ってくるもんですから
僕のしょっぱい自尊心は、いとも容易く完膚なきまでにボロボロになっちゃいます。

散々言いましたが、娯楽を提供するというのは
「子供に夢を与える仕事だ」とか「人生を豊かにする」とか良いようにも言えますし、僕もそういう力を信じています。
ですが一方で嫌らしい言い方をすると、子供から時間を奪い
自然への好奇心を削ぎ、単純な刺激を与えて親の財布から金をせしめる。
そういう職業でもあるんです。
…本末転倒ですけどね、僕はアニメを見る時間があるなら子供には野山や川や海、公園で遊んでいて欲しいんです。
友達と沢山体験を共有し、時には喧嘩して、世の中の仕組みや理不尽をその中で学び取っていって欲しいです。
怪我したって良い、暴力振るい合ったって良いんです、文字通り体感出来る事で育って欲しい、心底そう思います。
…ですが現実はそれすら難しい世の中ですから、少しでも明るい瞬間を増やしたいですもんね。
僕はそう思ってアニメーション作ってるんですけども。

…兎角、娯楽を提供しお金を貰うというのは、すごく変な事なのです。
苦しい時代は、こんなのでお金もらえなかったでしょう。
だから馬車馬のように働いて、少しでもお金貰えれば平身低頭を尽くす。
そういう職業なんだと思っています。
少なくとも、社会基盤を支える人間を見下したり出来る仕事じゃあありません。

とはいえ、こんな事言いながら僕は職業差別が大っ嫌いです。
他の職業人に馬鹿にされるのも堪ったもんじゃありません。
ですから馬鹿みたいに苦労して「こっちだって必死なんだ、馬鹿にはしないでね」と繰り返すのです。
冒頭に戻り、残念ながら人は他者の苦労を中々想像出来ないもんですから
見っとも無くとも「こういう苦労があって結構しんどいよ」と言うのです。

…更に言うなら
親しい友人に「どうせ絵描いてるだけだろ、こっち付き合えよ」と言われたのが未だに堪えているのです。

確かに、どうせ絵を描いているだけです。
でも色んなどうしようもない苦労も沢山あります。
それを遊んでいるみたいに言われても、嫌じゃないですか。
確かにエンターテイナーなんて下卑た仕事です。
それでも、そこで必死にやっているんです。
自分のえもいわれぬ感動を咀嚼して、誰かに伝えたくて必死なんです。
提供したものを、しょうもないと笑われるのは仕方ありません。
でも、その必死さを笑われるのは僕は嫌です。
だからその苦労を自慢せん勢いで繰り返し喧伝しているのです。
立派な友人に囲まれても、「僕だって必死にやってるよ」と胸張って言いたいからこそ。

話飛び散りましたが、そんな云々を「歌い手」と「絵師」とやらの喧嘩を横目に考えていました。
自戒も込めて
娯楽を作っている身として変に踏ん反り返らない事。
ちゃんとやってる事は卑屈にならずに胸張って言える事。
自分の苦労だけでなく、他者の苦労を想像するだけの想像力を持つ事。
そんな当たり前を、ちゃんとしていたいなぁと思うばかりです。



ところで最近、自分の絵について二つほど葛藤しています。

一つは、絵を描く際に無意識に制約を設けだしたことです。
どんな絵を描くにも「この絵を動かすには…」と考えてしまうようになりました。
すると必然的に、ごちゃごちゃしたデザインを避けるし立体造形カオスなものも中々描けません。
線画で表現できること、何百何千枚と量産出来る仕様であること…云々。
ただでさえまともに描けないのに、益々絵が描けません。
それに気付いてこれは困ったと思っているのですが、何故かその意識が抜けません。
…どこかでそれがラクチンとでも思っているのかなぁ。

もう一つは、描きたい絵が不明瞭になってきたことです。
方向性は極めて明白に、「穏やかな心持ちになれる」絵を描きたいのです。
ですが、ソレってなんだ?という話です。

もうすぐ公開の映画「風立ちぬ」の宮崎駿監督が、前作「崖の上のポニョ」を作る際
「朗らかな絵」を作ろうと悪戦苦闘していましたが
多分そういう類の話で、「曖昧なものを放つもの」を作りたいのです。

例えば子供が嫌いでなければ分かると思うのですが
元気にはしゃぎ回る子供たちを目の当りにした時、何とも言えない「穏やかな心持ち」になると思うんです。
それは決して、幼稚さを見下ろし生じる心的余裕ではないし
たどたどしさに生じる愛でたい心情でもないはずです。
希望や明るさ、安心や危なっかしさ、色んな要素を孕んだものを見守る際に生じる
なんとも言い難いあの感覚を喚起させるような絵を作りたいのです。

…ろくな絵も描けないのに何言ってんだと言われたら、仰る通りなんですが。

でも、そんな変な思いが一度湧き上がると、少しでもそれに近いところで踏ん張りたいと思ってしまうものです。
ですから、今の自分の技量でそれを表現出来るとは到底思えませんが
せめてその方向を向いた絵を見つけたいのです。

まだ二進も三進もいかない絵を描いているのに
そんなややこしい事だけ先に思いついちゃったもんですから、ちょっと厄介な感じになってます。
正直、全然分からないんです。
なんだよ穏やかって、子供見たときの印象って…わけわからん!

なんか、何年後か何十年後か分かりませんが
もしそんな印象を僕の絵から覚える事があったら、こいつやりやがったって思ってやって下さい。
よろしくお願いします。



あと、相互リンクのががめさんが、先日公開したMV「さがしもの」をステマしてくれてました。
すごくありがたいです、とても嬉しいです。
…が!「有頂天家族」とか「恋愛ラボ」とか「進撃の巨人」とかと並べるとかほんと公開処刑ですw
「バケツの中のかか」作ってた時は、TVアニメと同クオリティとかいつかいけるっしょ☆とか残念な事こっそり思ってましたけど
身の程をね、今になってよく分かりました。TVアニメほんとすごい。

そんなががめさんが先月公開したアニメーション、本当に素晴らしい出来です。
【巡音ルカ】 Track 【描いてみた】(ニコニコ動画)
彼の葛藤や希望が滲み出ているように感じられ、強く心揺さぶるなにかがあります。
ぜひ!


初音ミクと、自由と不自由の狭間
2013.07.07
先日、2ヶ月ほど作っていたアニメーション「さがしもの」を公開しました。
もし宜しければ、アニメのページからご視聴下さい。
よろしくお願いします。
既に視聴済みの方、本当にありがとうございます。

初音ミクという、超有名キャラクターを使ったので
僕の実力や動画のクオリティとは関係なく、多分に一定数は見てもらえるのだろうと思います。
ですから、本当に図るべきもの、動画がエンターテイメントとして成立しているかどうかというのは
少し時間かけて長い目で動画の評価の帰趨を見守らねばと思うところです。


動画について少しだけ、簡単に。

尺は1分半と短い事が最初から決まっていました。
ですからその中で、何かを物語るのは僕には難しいなぁと思い、素直に、ただただ映像的欲求を表現する事にしました。
「映像的欲求」というのは、「こういうもの観てみたい!」というすごく単純なアレです。
で。
最近TVアニメなんかを見てると、動いている背景はどんどん3DCG化し、綺麗に綺麗になっていきます。
それはそれでいいのです、作画労力もかなり省けるでしょうし、何より作画的な崩壊をあまりしないじゃないですか。
でも、でもですね。
色々と映像を見ていくと、段々と気付くのです。
「綺麗過ぎる、完璧すぎる映像は何も残さない」という矛盾するような事実に。
そこら辺の話は、ずぅっと考えながら本作作ってましたから、後日それについてだらだらと書けたらと思います。

兎角、そんな思いもあり、背景動画を一度ちゃんとやってみたい!という欲求もあり。
因みに背景動画、僕はちょこちょこやっています。
「かか」でも、「NamelessFlipbook.」でも「裡児(未公開)」でも「Decadence」でも「スーサイド・バラッド」でも。
でもどれも、ほんのワンカットだけでした。
だもんでしたから、背景動画をもっとがっつりやる!
しかもゴチャゴチャしたカオスな部屋で!(思いつき!)
おまけに無重力!(憧れ!)

…と、とにかく非常識な方向に映像的欲求が向かってしまったのですが
「1分半だし出来るだろう」と毎回の、計画性皆無な、思い込みによる暴走を始めました。
案の定、死にかけました。
後半30秒ほどに1ヶ月強かかりました。
あそこだけで800枚近く描きました。
本棚とか部屋に置かなければよかったと、何十回も思いました。

でも、何だかんだ出来上がって、ゴチャゴチャしたカオスな部屋の無重力状態の背景動画をがっつりやる!という
馬鹿げた目標は少しは達成出来たんじゃないかと思います。
終った直後、「背景動画はもうこりごりだ…」と思っていましたが
今もうすでに、「また背景動画やりてぇなー」と思ってしまっている辺り、僕は阿呆なんでしょうね。

因みに。
動画には一応、謎と伏線を用意して、ちゃんとオチる、という風にしたつもりだったのですが
誰一人として突っ込んでくれない辺り、上手くいってないのかなぁと少し悔しい思いです。
…ネタバレになるので「そう言われたら自力で気付きたい!」という人は、次の段落スルーして下さい。

まず最初に気付いて頂きたい点、初音ミクのいる部屋、不自然なんです。
窓もない、ドアもない。
一体全体どうやって生活しているのかと。
でも、そこは「まぁアニメだから」と開始数秒でみんな思考放棄するだろうと思っています。
お次は、初音ミクが大層大事そうにしている、箱。
なんだこれ、何が入っているんだ、というところですが、どうやら初音ミク自身も中身を知らない様子。
そうこうしている内に、箱は輝きだし、部屋は無重力となり、箱の蓋が取れて
ラストシーン、初音ミクはついには中身を拝もうとするのです。
すると急に虹がパァーっと飛び出し、部屋をも飛び出したかと思うと、"蓋"が閉まる。
…あれ?
…となって欲しかったのです。
そうです、初音ミクは箱の中にいるのです。
そしてそれが、マトリョーシカのように延々と繰り返しているのです。
箱の中には、初音ミクと箱があり、その箱の中にも初音ミクと箱があり…
そういう、無限多重層的な構造の中で彼女は生きている、そういうオチでした。
部屋の壁紙が、箱とほぼ同一のストライプ模様なのも伏線のつもりでした。

初音ミクの動画に関しては、大体こんな感じです。
楽しめるものか分かりませんが、一人でも多くの人に観てよかったなぁと感じてもらえると良いなぁと夢想しています。
あと、自分の動画に対し自ら真っ当な評価を下すにはやはり時間がかかるので
数年後に観直した際「おぉ」と思えるといいなぁと思います。



話変わりまして。

動画を作っていた際、いつになく不思議と「自由になりたい」と繰り返し考えていました。
実際、以前も書きましたが、膨大な作業時間に束縛されて碌に自由を感じられない生活をしています。
お風呂に入るのもタイムアタック、料理をするのもタイムアタックです。
お風呂は20分以内であがる、銭湯に行く場合は1時間以内に戻る、料理は長くても20分、食べるのは10分まで。
そう決めたわけでもなく、なんとなく自然とそうなってしまい
その時間を越えてしまったのに気づいた時、なんとも言い難い「サボってしまった」感覚に襲われます。

そんな訳で、本当に碌に自由も感じられなくなっていたのでしょう。
でも、「自由になりたい」と思うたび、自由とはなんだと考えていました。

…あんまり鬱々とした事を書くと身内に心配かけますし
鬱々としたキャラで書くと特許を侵害してしまうようなので先に断りますが
別に鬱屈とした話ではなくて、一つの考察文として読んで下さい。
落ちこんだりもしたけど、僕は元気です。
鬱じゃないよ!

自由とは。
そう考えると難しいので、逆に「不自由とはなんだ」と考えてみると
極論かもしれませんが「生きている事」に他ならないと思うんです。

生まれた時から、僕らは生きる為に次々と不自由を獲得していきます。
先ず、この世に形を持つという事で、無形でいる自由を失います。
地球上に誕生する事で、無重力という自由を失います。
呼吸を覚える事で、酸素のある場所に束縛され続けます。
生きる為のエネルギーを得る為に、継続的に食事をするという束縛を獲得します。
要らないものを体から排除する為に、継続的に排泄するという束縛を獲得します。
社会に属する為に言語を覚え、協調性の為に真の意思表示をする自由を失います。
社会を成長させる為に、法や恥という意味不明なルールに縛られ続けます。
生きる為に、毎日何時間も仕事に束縛され続けます。

こうして、人は極度な不自由を覚えます。
「真の自由とは、経済的に自由な事だ」 という発言を見たこともありますが、全く以てそれは不自由でしょう。
資本という概念に縛られ続けています。

結局のところ、一般的に言う自由とは「相対的に自由」である事のようで
「他人よりも自由でありたい」ただそれだけなんでしょう。
ほんと、そんなのどうでも良いと思うんですけど。

僕は真の自由とは、生きていない事だと思います。
生きている時出来る事が出来ないじゃないか!不自由だ!
というかもしれませんが、生きている間に出来る事なんて高が知れているじゃないですか。
生きているうちは、束縛の中で色んな事を実現しながら自由を求め続けますが
生きていなければ、そもそも自由を求める必要性を感じませんから、圧倒的に自由ですよね。

そう考えると、人間というのは大層面白いもので
生まれて一定期間、ひたすらに不自由を積み重ねて
ある境で急激に「自由」を求め始め、必死に戦い、自由など得る事のないまま死んで、ついにはそこで真の自由を獲得する。
そういう一連の流れがあるのかと思うと、死に少しだけ、希望を抱けますね。
…いや、鬱屈とした話じゃないので「死にたい!」とかそんな話じゃないですよ。

でも、そんな風に思うならサッサと死んだほうがいいじゃないかという話になりそうですが…僕は大好きなんですよ。
無限に積み重ねた不自由から、どんな瑣末な事でもいい、一つ解放された瞬間に訪れるフワッとした僅かな自由が。
ものの数分しか続かないかもしれない、ひたすら些細な自由、再び獲得した自由がくれる、大きな解放感が堪らなく好きです。
生きていない圧倒的な自由の前では本当に取るに足らないものだろうと思います。
でも、そんな小さな事でここまで幸せを感じられる、この情けない生きている今が好きなんです。

昨日、シャワーを、時間を意識せずにボーっと浴びてました。
上がってみれば、浴びてた時間は30分ほどでした。
凄い幸せでした。
笑っちゃうでしょう、そんなの自由でもなんでもないって。
でもこれで幸せになっちゃうんですよ。
良いでしょう。
生きてるって不自由で素晴らしいなと、心底そう思います。
いつまでも自由になりたいと願いつつ不自由と戦い、いつか来る真の自由に向けて走り続けていたいなぁと思います。


戦うニート。
2013.06.28
弱音。
今、すごく女々しい気分なのでそれに従って色々と。

僕が「ニートです」と言うと
実のところ報酬貰って制作をしているので嘘になります。
ですが悲しい話、時給換算したら最低賃金も笑っちゃうような金額になってしまうので
結局のところニートに毛が生えたようなもんだと思ってます。
こういう事はあんまり書くべきじゃないんでしょうけども、女々しいので苦労自慢で書きますと
京都に来てからの15ヶ月ほど、恐らく、月300時間を下回った事はないと思います。
むしろ350時間上回ってた月の方が多そうです。
もちろん作業時間、即ち労働時間のことです。

最近ブラック企業だ過労死だと、嫌な言葉が並びますが
残業の多い業種2位に位置する「映像系」(1位はお察しの通り飲食系)でかつ自営業というコンボを選んでしまった僕は
話題に上る労働時間を、あるある、程度にしか捉えられない状態です。

でも、そんな労働時間を1年以上続けても過労死しない理由は一つだけだと思ってます。
労働状況を監視する人間が「僕自身」であり、適当に自分に加減をしているからでしょう。
上からの視線や、その類の圧迫感がない。
これだけで人はそう簡単には死なないと思います。

監視が無ければいくらでも遊べるじゃないか、何故そんなに労働時間が増えるのか。
と問われれば、理由は二つです。


一つ目はシンプル寂しいもんですが、友達がいないからです。
京都には友人らしい友人もいません。
家に引き篭もって作業してるもんで、出会いらしきものがそもそも皆無です。
というか、2013年も半分過ぎましたが
今年、ちゃんと会話した相手が片手で数えられるほどしかいない気がします。
…それは言い過ぎかもしれません、同人即売会のM3とか行きましたし。
でもそれ含めても、両手あれば足りそうな勢いです。
そんな調子ですから、時間が有り余るんです。
飲みにいく事もない、遊びに行く事もない。
更に言うと、在宅ゆえ通勤時間すらない。
作業する時間だけ、限りなく増えていきます。

これは、僕自身が仕掛けた事です。
僕は「嫌になったら物事から逃げ出す自分」を目の当たりにしました。
なら、逃げれないようにしてやる他無いんです、そうしないと頑張れないんです。
おかげさまで、まだ逃げずにやってます。

これが一つ目の理由です。


二つ目は、強烈な恐怖心です。
仕事をしている社会人の方、想像してみて下さい。
あなたが責任者となって何ヶ月も取り組んだ仕事を手に持って
例えば2ちゃんねるのように誰もが歯に衣着せぬ物言いで言い合ってる、そんな人らで溢れた広場に行き
「私は僕は、こんな仕事を頑張りました!これって良いと思いませんか!」
と大声で叫んでみる事を。
あなたは、そんな率直な人らに褒めてもらえる自信、ありますか。
僕は全くありません。
哂われるか、罵られるか、誰からも見向きされない姿ばかり想像します。
…皆から絶賛される妄想をして、現実とのギャップに打ちひしがれる事もしょっちゅうですが。
でも誰からも褒めてもらえなければ、それで次の仕事はなくなるんです。
終わりなんです。
めちゃくちゃ怖いですよ。
僕がもし、いずれ誰かを雇って規模を大きくして映像を制作する事になれば
僕はその人らの生活も抱えろって事でしょう。
想像するだけで凄まじいプレッシャーですよ。

そんな事だと分かれば、そりゃあ必死に作業します。
少しでもリスクを減らせるように、一人でも良いから誰かに褒めてもらえるように。
だって同じような事してる人らが、みんな月に何百時間も働いてるんですよ。
僕だけ150時間労働で褒めてもらえる、なんて到底思えないです。
そんな自信、僕には微塵もありません。
だからひたすら作業してるんです。


その二つの理由で、馬鹿みたいに作業ばっかりしています。
結果的に、時給なんて考えるだけ虚しい代物になってます。
おおよそ人間らしい生活も出来ていません。
ほんと社会人失格です。
…そもそも、社会人に成れたとも思っちゃいませんが。


しかし、こんなに「労働時間すげーだろ」って衒ってみても
実際は酷いもんで、全然大したもんじゃあないんです。

たとえ、月に300時間の作業時間を確保した!
といっても、ベストな集中力を維持している時間など高が知れているのです。
しかも確保した作業時間に反比例するように、モチベーションは下がるものです。
当たり前です、「時間がある」という勘違いで余裕を感じてしまうからです。
しかしそこまで分かっても尚、大して集中出来ない自分には苛立ちを覚えます。
心底自分を情けなく思います。
心底自分を屑だと思わざるを得ません。
そうやって自分を責めていく最中、可笑しくならない筈もありません。
どんどん精神状態は不安定になります。
実際、自分でも時折「おかしいな」と思う事が増えています。
手に持ったコップを無性に壁に叩きつけたくなったりするんです。
意味なんて全くないんですが。
毎日コンビニやスーパーにいけば無数の人とすれ違うのに、全く人気を感じなくなるのです。
世界中から誰もいなくなったような錯覚さえ覚えるのです、隣に人がいるのに。
食欲を満たしても満たされない、性欲は満たす気さえ起こらない、睡眠欲もどうでもいい。
でも、なんだか排泄欲だけ少しある、他に欲求らしいものも特になく、だから何となくペンを握って描いている。
そんな訳の分かんない状態になるのです。
こんな状態になれば当然、集中力なんてズタボロです。

こうなれば、あとはひたすらに悪循環です。

結局のところ、定められた労働時間というのは人権云々など関係なく
効率化の為にもそれがベストなのです。
超過労働時間なんて、なんの自慢にもなりません。
効率の悪い事やってます、と馬鹿な自分を馬鹿とも思わずに喧伝しているだけです。
末路はきっと惨めでしょう。


最近、周りでニートになった人が何人かいます。
アドバイスでも何でもありませんが、一つだけ、一年ほどニート紛いの生活をして思ったことを。

セルフコントロールを確実にして下さい。
自分が可笑しくなり始めてから、自分でそれを修正できると思いますか。
きっと出来ませんよ。
可笑しくなる前に、ストレスを軽減する方法を獲得し
どんなに忙しくとも面倒臭くとも、それを実行する時間は必ず持ってください。
一日1時間でもいいんです。
仕事や作業とは別の事を、少しでもしてください。
外の空気に触れてください。

僕もだいぶやられた気がしますが
公園一人飯はじめてからずいぶん元気になりました。
一日1時間程度のことなのに、不思議なもので、効果は絶大なんですよ。
しんどくなってきたら是非、騙されたと思ってやってみて下さい。


…勿論!
普通に生活していて定期的に訪れる「鬱々とした気分」は無くなったりしないので悪しからず。
そこは負けないように、必死にやっていきましょう。
そうすればきっと、楽しめる日々がやってきます。たぶん。…きたらいいな。


日々と、足りない魅力
2013.06.19
もっと間隔短く日記書けたらなぁって書いた前回の日記から、どうも1ヶ月ぶりです。

こう宣言するのも格好悪いですが、相変わらずあんま余裕のない日々です。
色々と書きたい事をメモして拵えておりますが、どれも書き出したら長くなりそうなものばかりで
サラッと書けそうな事もあんまりないなぁなんて、思いつつ。


少し前のことですが、最大のライバルから「リア充めっ」とネタ的に突っ込まれました。
…どこを勘違いされてそうなったか、とっても不思議です。
実のところ、割と笑えないレベルで引き篭もりニートを邁進してます。
色々とネット上の露出が少ないのは、リアルが充実しているからではなく
両手盛り沢山の課題に追われて
日記書いたりツイートしたりしたら、何遊んでんだよ糞野郎!と罵られるんじゃないかって不安だったり
何一つ面白い出来事のない起伏のない毎日を過ごしていたりするせいなんです。
…いや、彼女さんとは週一で遊んでいまして、その時間はとても楽しいです。
でもそんな事一々書いたらそれこそ、何充実してんだよ糞野郎!って罵られそうなので、コッソリしてるだけなんです。
そんなこんなで、何一つ露出する事がない日々です。

でもでも、そんな僕でもちょっと前までは少しだけ充実してました。
というのも、毎日お昼になったら散歩にでて、一人のんびり公園でコンビニ飯を堪能する事が出来ていたんです。
しかも、延々やるやる詐欺だったゴミ拾いも、4月末ぐらいから地味に再開しましてそれはもう充実してました。
サングラスかけた厳ついオッサンが自転車にまたがりながら
「兄ちゃんタバコひろってんのか!えらいな!タクシーの運ちゃんはタバコ捨てまくってあかんな!子供もおる公園なのにな!」
と声かけてくれたりして、それはもう良い時間でしたよ。
タクシーの運ちゃんが特別悪いとは微塵も思っちゃおりませんが。

でも、そんな充実した1時間弱の昼休みも、修羅場ってしまったお陰でここ2週間近くお休みしてます。
あと雨ですし。
萎え萎えです。
そんな萎え萎えな気分に呼応して、中途半端でも区切りが付いたのを良い事にストレス発散気味に落書を少ししてます。
それも多分、あと1枚2枚描いたら、またしばらく厳しそうですが。


落書をしていて、あとアニメーションを作っていてもそうなのですが
最近「自分の魅力の無さ」について、割と真剣に悩んでます。
…僕自身の魅力とかどうでもいいです、不審者に見えなければ満足です。
でも、イラストやアニメーションの放つ魅力が、足りなさ過ぎるんじゃないかと今更ですが気になり始めました。
ずっと技術的なことを一生懸命追いかけてきましたが、多分に
技術がふんだんにあっても、「魅力」というのはついてこないんじゃないか、と感じています。

何故そう感じるか、と問われると答えるのはおこがましくて恥ずかしいのですが…
少なくともこの人には技術的には勝っているだろう、と僕が偉そうに決め込める人というのが僅かですが居ます。
そういう人が僕よりもずっと良い評価を得ている、という事があまりに多くなってきたんです。
単純に僕が見誤っている可能性は十分にあります。
「同レベルだ」と思った相手は、大抵アナタよりも上手で
「低レベルだ」と思った相手は、大抵アナタといい勝負だ、という話しも見聞きします。
ですから僕の判断能力があまりに乏しいのかも分かりません。
とは言え、技術で劣りつつもよい評価を得るという事は、評価に見合う魅力がある、という事なんだろうと思うのです。

技術と魅力は別もの。
んなこと昔から分かっちゃいたんですが、ある程度人体を崩壊し過ぎずに描けるようになったら
魅力なんてそこそこついてくるんじゃないかって、勝手に期待してたんでしょう。
ですから今、なんだかすごい残念な事になっている気がしています。

そんなこんなで、最近は魅力の無さに苛まされております。
かと言って他人の魅力を拝借するのは論外ですし、どうにかどこかから魅力が湧き出てくれんものかと悪戦苦闘しております。
どうしたものか。


…結局日記長いな!


三つほど
2013.05.17
どうも、5月中旬になってしまいました。
…時間経つの本当に早いなチクショウ。
相変わらず時間管理が上手く出来ずに1週間の間に、1時間程度ですむ日記を書く覚悟さえ中々出来ません。
参ったもんです。
そんな訳で、書きたい事が再びたんまりです。
ダラダラなりそうなので、三つぐらいに分けながら書いてみます。


布教
最近、色々と布教したいものがまた増えています。
サイトが未完なもので、雑談要素が無い為に布教し辛くてしょうがないのですが
折角なのでここでいくつか。

ハピファミCM【描いてみた】(特設ページ)
相互先のががめさんの作品です。
愛らしい彼のキャラクターが、彼らしく活き活きと動いていてすごく良い。
仕草の一つ一つにキャラクター性を強く感じられます。
そういうキャラクターの演出の仕方が大好きなので、ほんともう、堪らんです。

さざなみ(pixiv)
たまたまpixivで見かけたイラスト。
…ぐぬぬ、18歳だそうです巧いな本当に。
以前、「スーサイド・バラッドMV」の所感の際、構図が全然駄目だったと書きましたが
それから…本当はその以前からずっと、構図を意識して観察し、自分の中に組み込もうとやっているんですが、未だ全然です。
ですがこのイラスト見た時に、僕の目にはその構図が完璧に見えて、心底感服しました。
本当に綺麗です、この心地良さを50とか60カット分で獲得し続けなきゃいけないと思うと相当です。
足らん、努力が足らんですよ。
頑張ります。

米津玄師(Youtubeチャンネルページ)
最近この人の曲をよく聞いてます。
ボーカロイドの曲も、よく話題になってるものはちょこちょこ聴くので
この人がハチという名義で投稿していたボーカロイドの曲も流行っていた当時から知っていたのですが
まぁそれがさっぱり肌に合わなくて、正直言うと、寧ろ嫌いだったぐらいです。
ですが本人が歌っているのはもの凄く聴き易く、僕は断然こっちが好みでした。
しかし、まぁ当然と言えば当然なんでしょうけども、最新の曲に対する反応は
ボーカロイドを使っていた以前までのそれとは全然違ってみえます。
ファンの気持ちも分からんくはないんですけどね。
僕は原恵一監督の作品が大好きですし応援してますが
「原恵一監督が実写撮りました」との話を聞いて、興味こそ沸きましたが観に行こうとまでしていませんから。
結局、監督のアニメ作品が観たいんです。
それと似たようなものかと思えば、ファンの心理も分からなくはないんです。
…世知辛いなぁとも思いますが。
兎角、新しいファンを獲得して、上手い事やっていって欲しいとこです。

あと幾つか、個別に触れませんが、いいなぁと思ったものを。

さがしもの ハンバートハンバート(Youtube)
Dumb Ways to Die(Youtube)
Motoro Faam - And Condensation(Youtube)



近況と、手描きによるアニメと3DCGによるアニメの差異
今月頭まで、作家さんのアシスタントでゴリゴリと作画しておりました。
その作品の公開はまだ先の事のようなので、またその時に紹介できたらと思います。

で、今はまた新しいアニメーション作品を作り始めています。
こちら短くて、90秒程度のものになる予定です。
とはいえ制作期間も短いので、力の割き方を従来からグッと変えて
映像の後半を8割の力で、前半を2割くらいの力で取り組めるような制作スケジュールを組んでみました。
その後半の映像が見応えあるものになればいいなぁと心底願いつつ。


その話に絡んで
3DCGによる「アニメ風」の演出、僕はこれをずっと「なんか違うだろう」と言い続けてきました。
しかし何が違うかずっと分からず、3DCGで制作してみても「作ってる際の手触りもやっぱりなんか違う」としか捉えられず
アニメは手描きか3DCGかの議論で盛り上がる時も、無理矢理こじ付けまくって「だから手描きの方が良いんだ!」と強引にやっていました。
ですが先日ふと、ものすごく単純な違いに気付きました。
手描きのアニメーションを作る心地よさに一番近いのはなんだろうかと考えてみると
多分、実際にやった事ないので多分としか言いようがないのですが、コマ撮りアニメーションじゃないかなぁと至りました。
というのも「一コマ一コマポーズを決めて、それを繋ぎ合わせて動いているように見せる」という流れがアニメーションと同じだからです。
そう考えた際、これが3DCGとアニメーションの決定的な違いじゃないかと思いました。
手描きのアニメーションというのは、映る瞬間を全て1コマずつ描いていきます。
それは「適当にそれっぽく繋ぎ合わせる」という事ではなく「その瞬間に一番見せたいものを描いていく」という事です。
すると結果的に、アニメを見ている視聴者の目に映るのは常にベストの状態の画面になるのです。
勿論、あくまで手描きアニメの理想ではありますが。
しかし3DCGのそれは、より実写に近く「滑らかに動くものがあり、それをカメラで連続的に捉えたもの」なのです。
勿論構図やカメラワークなど洗練はするでしょうけども、一コマ一コマをベストの状態にするのは、実写では恐らく不可能でしょう。
3DCGでは無限の手間がかかるはずで、そんな手間をかけるなら手描きの方がずっと効率的です。
…例えば「このキャラのこの一コマだけ、もう少し腕を伸ばしたい」となった時、アニメならそう描けばいいんです。
でも実写では、都合よく人物の腕は伸びませんから無理です。
3DCGでは、一々モデルを改変しなければいけません。こんな手間も無いでしょう。
そう思うと手描きアニメがもの凄く好都合なように思えますが
実写で不可能な動きをさせる訳ですから、狙ったとおりに見えるかどうかは動かしてみるまで分かりません。
何故なら「そういう動きを見た実体験がない」からです。
あくまで直感で「ここは腕が長いほうが気持ちよく見えるはずだ」と決めてかかり、試してみるほか無いんです。
だからこそ、狙い通りに動いた時の心地良さが格別なのでしょう。

そう考えて、これこそが
アニメーションを作る心地良さの理由であり
アニメーションを作るのにかかる手間の理由であり
アニメーションが気持ちよくみえる理由なのだろうと、今更ながらに思いました。
こんな単純な理由で、僕は随分と納得いってしまいました。
そして同時に、3DCGや実写とはやはり別物であり、それらで再現するのは困難な代物なのだと、勝手に再認識したところでした。

「手描きのものはぬくもりが」とかも言いますし、そういう話も分かりますが
表現として「全くの別物なのだ」と認識したほうが色々としっくりきます。
3DCGは実写と親和性が高く、アニメとは中々馴染んでくれないのも納得いくような気がします。
結局アニメは1コマずつ制作するのが常にベストなのではないか、と思いました。
…裏方を見ると、そんな生温い事言ってられないのも事実なんですが。



認識ミス
これまで僕は、どうやらとても初歩的な部分で認識を誤っていたようです。

というのも、せっせと創作行為に励み、成果を発表をする人の中には
精々趣味の人、あわよくばプロになりたい人、プロを真剣に目指す人、プロを諦めた人、プロの人…
等々、多種多様な人がいるということです。

えぇ、すごく当たり前です。
そんなの当然だろう、と突っ込みが山ほど飛んできそうなぐらい当たり前です。
でも僕は、何となく、創作行為に真剣に取り組みそれらしい発言を繰り返す人は皆
僕と同類でそれを生業にせんと必死なのかと思っておりました。
そして多分に、僕が「この人の主張は理解し難いなぁ」と思っていた人の大半は
趣味の人か、あわよくばプロになりたい人だったように思います。

因みに、表記の仕方から「あわよくばプロになりたい人」を貶しているようにみえそうですが
毛頭そんな事思っていませんので、ご理解頂けると助かります。
そういう人らは僕のような猪突猛進の馬鹿野郎と違い、ずっと堅実でまた自分の力量に対し謙虚な、現実主義者なのだろうと思います。
僕も「学歴の保険が欲しい」と思って受験勉強のために1年費やしましたから、その心情は十分に分かるつもりでいます。
しかし、「あわよくばプロ」になる為には相当の才能とチャンスが無ければ無理じゃないかと考え
自分にそれらがない事はあっさり理解出来たので、結果的に僕はこういう状況になっているというだけの話です。

兎角、僕にとって理解し難い主張は
僕と創作行為に対して異なる姿勢で挑んでいる人らによるものだと理解しておらず
「その主張は看過し難い!」と居丈高に噛み付いていました。
結果的に、そういう人らを不快にしていたであろう事は申し訳なく思います。

しかしこんな性分ですから、いくらでも釈明も思いつきますが、したところでどうにもスッキリしないだろうので
僕が再認識をちゃんとして、今後はもう少し落ち着いて色んな主張をみていけたらと思います。
そのうえで「やっぱり看過し難い!」と思ったら、またダラダラと書いてしまうと思いますが
その時は「また毒吐いてるなぁ」と他人事のように思ってもらえればと思います。



さてさて、こんなもんでしょうか。
もっと色々と書きたい事ありますが、いい加減作業に戻ります。
日記を書く時間をとる勇気が、もっと早く出ますよう期待しつつ。


駄々散文
2013.05.01
どうも、5月になってしまいました。
ずっと日記を書きたい書きたいと思いつつ、時間の管理が尽く駄目で、中々に書けませんでした。
お陰さまで書きたい話題ばかり溜まり、ついには溢れて話題を忘れつつある今日この頃です。
にて、もういっそのこと思うままに、適当に、ただただ書き連ねてみようと思います。
長文ご容赦下さい。



自己認識。
この事について僕はここ一年ほど、大変な混乱に陥っています。
自分とは一体どんな奴で、どういう立場にいて、どういう環境でどのような建前発言をし、どのような本音を持っているのか。
些細な切欠で考え始めてしまい、もう二進も三進もいかない状況です。

僕の好きな、「人間心理」を突いたお話です。

サッカーをしている時に、相手チームに凄い選手がおり次々にシュートを決めていました。
そこで僕はその選手に近寄り一言、こう声をかけるのです。
「凄いシュートだね!シュートをする前、どっちの脚から踏み込むんだい?」
するとどうでしょう。
さっきまで絶好調だった選手が、瞬く間に調子を悪くし、蹴っても蹴っても全然ゴールに入らない。
たった一言訊ねただけで、あっさり不調になってしまった。

この話、僕は妙に納得しました。
多分にこの凄い選手は、どちらの脚から踏み込むかなんて、気にも留めていなかったのでしょう。
しかし聞かれれば意識せざるを得ません。
これこそが人間心理です。
そして、そこに意識を割くという事は、集中力を削ぐ行為に他ならず
本来無意識的に出来ていた事が、途端に全然出来なくなるわけです。
恐らく、ある程度の時間を過ぎればその選手は本来の力を取り戻すでしょう。
それこそ、以前よりも強力になって。
しかし、一度意識を植え付けさせられたら、短時間では簡単に拭う事も、乗り切る事も侭ならないはずです。

実は、これと同じような事が僕の身に起きました。

自分の性格…本音や建前というのは、本来然程意識せず当たり前のように使い分けているものでしょう。
無論、伝えようとしている内容が虚偽であり、相手を騙すのが目的であるならば話は別です。
ですが自分の思いの丈など直感そのものであり、意識して生み出すものではない筈です。

そんな自分の思いの丈に対し、ある時「どこまで本音か分からない」と指摘されました。
こっちはどこまでも本音でしか書いてないもんですから、兎に角混乱しました。
僕の本音とは何だ、建前とは何だ、そういう発言をする僕の性格とは何だ、僕の望みとは何だ。
考えるほどに泥沼にはまるのです。
というのも容易く、本音の裏を取れるからです。
そしてその本音の裏さえも、容易く否定出来てしまうのです。

例えば、僕が散々書いてきた「モテたい」等という下卑た思いで創作行為に身を投じるな・主張するな、という主張。
そういう思いで創作行為をされるのは嬉しくない、これは本音です。
ですが、「モテたい」という心理が分からないのか、と問われれば全然そんな事もありません。
誰からも声をかけられないよりは、皆から羨望の眼差しがあったほうがずっと良い、そんな事は当然に思えるのです。
すると、最初の主張はあっさりと建前に落ち、本音はそうでもない事になってしまうのです。
ですが、これまた変な話なのかもしれませんが、創作行為をする人々は幼い頃の僕にとってヒーローだったのです。
それこそ、なんとかレンジャーみたいな、或いはアイドルグループでも構いません。
兎に角格好良くて、彼らの創作に馳せるこだわりや思いの丈の一言一句に痺れました。
僕にとってのクリエーターというのは、そういう存在だったのです。
もし彼らが「異性にモテたくって」と言っていたら、僕はきっと随分とがっかりしただろうと思うのです。
勿論、今になって思えば僕の憧れた彼らも、「モテたほうが良い」ぐらいは当然に思っていたでしょう。
ですが、それを口にする事がどれほど見っとも無い事か、重々理解していたのだと思います。
今のネットコミュニティは素直であること、欲望に忠実であることこそ良いというような
風変わりな風潮があるように思えますが、僕はそれをあまり好き好んではいません。
…愉快に思える事も多いので、嫌いでもないのですが。
好き好めないのは恐らく、かつての僕が憧れていた存在に程遠いからに他なりません。
ですから、巡り巡って本音は、やはり下卑た思いを表に出すな、となるのです。

…例え話として分かり易い気がしてこの話題を選びましたが、この話題使い過ぎですね。
以後ちょっと自重します。

兎角、こんな具合に僕の建前と本音は煩雑に入り乱れ、僕自身まともに掌握出来ませんでした。
するとどうでしょう。
自分が全然分からなくなり、こういう時にはどういう反応をするのが僕なのか…
と、恐らくするであろう自分の反応を考えて反応する、という奇妙な状態に陥りました。
まるで自分で自分を演じているような、そういう奇妙な感覚です。
しかしすると、的を外す事も少なくなく、こんな反応をするのは自分じゃない、という不思議な葛藤に苛まされました。
延々そんな下らない事を繰り返しているうちに、何だか冷めた自己像が出来上がり、それに準じるようになっていました。
ここで手を差し伸べるべきだというのは建前で、本音はそうじゃないからしないで良い。
こういう極めて情けない本音に忠実な、下卑た自己像を実行するようになっていました。

ある時、改めて自分自身の言動を顧み、「こいつ性格悪いなー!」と心底思いました。
そしてようやく、当たり前に気付くのです。
こうしたら嫌な奴だな、嫌な奴にはなりたくないな、だから建前で構わないからそうしないでおこう。
これは立派な、自分であろうということ。
そして勿論、こうすれば喜んでもらえそうだな、喜んでもらうのが例え利己的な動機であろうとも
例え利己的な動機のついでだとしても、喜んでもらえるならいいじゃないか。
こういう、いわゆる鼻で笑ってしまうような偽善的な思考も、十分に自分を構成する一要素であること。

本来僕は、馬鹿みたいなこういう思考も全部ひっくるめて、当たり前に全部こなしていたんでしょう。
そして曲りなりにも、それが僕だったのでしょう。
ですが、碌に意識もしていなかった自己像を考え始めると、途端に調子を悪くし、僕は僕を全然扱えなくなっていました。
そして延々、それこそ一年ぐらい、僕の性格とは、本音とは、建前とは、と事ある毎に考えていました。
何とも阿呆らしい葛藤ではありますが。
とはいえ、長い馬鹿っぽい葛藤を経て、ようやくアイデンティティみたいなものを取り戻せそうです。
そして、ようやく気付くのです。

そうやって取り戻せそうな本来の自分自身も、性格悪いんじゃね、と。


………うん、考えてもみれば元からそんなに性格よくない。
付き合いの長い友人らに尋ねれば、十中八九「あいつは自己中だからなー」って言われる気がします。
手前味噌にもなりませんが、なんか自信あります。
一年かけて、まさかの自虐に辿り着くとは夢にも思いませんでした。
…うん、喋るほどにボロが出そうだから、せめてこの日記以外では黙っとこう。
最近ちょっと口数多すぎた。


ところで、沈黙は金、という言葉をよく耳にします。
沈黙は金、雄弁は銀というあれです。
僕は失言や言い間違えが鬼のように酷く(バスを見ながら「あの電車さー」とか平気で言う)
出来れば「沈黙は金」でいよう、とか思うのです。
…全然出来もしないのですが。

ここで、幼い頃に憧れたクリエーターの話に戻るのですが
僕がこういう生業を選択した都合、憧れた彼らは憧れの人から同業者へと変わり
憧れの意味合いも緩やかに変わりました。
彼らの創作に対する熱意、作り上げるものにこそ敬意を示しますが
人格はまた別問題、そういう当たり前の変化です。
すると、不思議なことに二十年近くの時を経て、憧れが再びアニメやゲームの世界へと向いている事に気付きました。
同業者はどうしても、どうしてもそのリアルな息遣いを理解できるような気がしてしまい
彼らの葛藤や苦悩を、勝手に想像し共感してしまうが為に、素直に「格好良い!」と憧れられなくなりました。
その一方で、そういう彼らが、彼らの理想像やらを具現化した創作物の中に現れる
実在しない人格、これにひたすら感服し、共感すら許さぬその絶対的な存在に憧れていました。
最近、何故かこれまた巡り巡って5年も前にハマったゲーム「Halo」のマスターチーフの人格にひたすら焦がれるのです。

マスターチーフとやらは、いわゆるゲームの主人公らしく
とことん寡黙な、それでいて比類なき強さで数多の敵を蹂躙するスーパーヒーローです。
その寡黙さたるや、兎に角格好良い。
その職人さたるや、兎に角無駄がない。
その無頓着さたるや、兎に角ブレがない。
…こんな人間実在するなら是非お目にかかりたい。

そんな訳で、最近色々と悩みだすと「One final effort」を聞いてチーフに助けてもらうのです。
敵味方どういう状況であろうと黙して、目的を達する為にただひたすら孤高に、孤高を孤独とも思わずに
人類存亡なんてどでかいものを肩に乗せられても平然と戦うその様を前にして
「あぁ僕はなんて情けない…」というシンプルな心理療法で。
そして僕もチーフに焦がれては、寡黙を試みるも
ベラベラと喋っては失言し、言い間違えては混乱を招き、というのを延々とやってます。
…どうやらこれが僕のようです。
チーフみたいになりたいよチクショウ。


選別意識
2013.04.21
今朝、ツイッターにて久々にフォローをダダダっとしました。
いつからか、何かに怯えてフォローするのをすっかり避けていたのですが、怯えていた中身を忘れてしまい
避ける理由は「タイムラインを追える範囲のフォロー数」にすり替わり
だったらせめて同業者ぐらいはフォローしようと昨晩急に思い立ち、フォローしました。
そしてフォロー後間もなく訪れた強烈な不快感で、怯えていた理由を思い出しました。

僕は、理由は判然としませんが、人を選別する事に大変な不快感を覚えます。
…いや、僕は下衆いほどの選民意識を持っていますし
それは、有能な人はどんどん前に出て行くべきだし、無能な人はそういう人らに向かって協調性を叫ぶなとか
僕の中には明瞭なまでの社会能力主義的な選別観は確実にあるのですが、そうではなく
もっとミニマムな場での選別について、僕は大変な不快感を覚えるのです。
例えば自分と友人2人と、3人で遊ぶとなった際に
どう足掻いても2対1になるような場面というのは、訪れます。
その際に、僕は2人側になるのが絶対的に嫌です。
友人から一緒にいる事を選ばれるのも、自分から友人2人のうちの片方を選ぶのも、とんでもなく嫌なんです。
それが例えば、僅か5分程度の移動でも嫌なんです。
何故かと言われても、よく分かりません。
ただ、選ばれない人(この場合は自分も含みますが)の心情を不思議なほど恐れている事と
僕が自ら選ぶ事に対する傲慢さに、ただただ怯えているのは分かります。
古く記憶に留めていない、斯様な状況に対するトラウマでもあるのかもしれません。
だから選別が始まる前に僕は率先して、2対1の1側になろうといつも必死です。
選びたくも、選ばれたくもないのです。
…いや、選ばれる事は素直に誇らしいです、嬉しいです。
でも自分が選ばれる事により、選ばれない人が目の前に現れる、それが大変怖いんです。
だから例えば、社会規模で発生する就活や、僕のような仕事のクオリティ競争において
勝ち負けという選別が発生する事にはなんの嫌悪感もありません。
そこには厳然としたルールがあり、それが真っ当であればあるほど、勝っても負けても僕はそれを自然だと受け入れられます。
ただ、ミニマムな場で、目の前で
「なんとなく」や「好き嫌い」という曖昧な理由のもと選別されていく事は、大変恐ろしく思っています。
繰り返し、理由なんか分からないんですが。

冒頭の話に戻りまして、僕は斯様な恐怖心をツイッターにも覚えて
フォローしてくれた方に対し、こちらの曖昧な感覚でフォローし返すか否か選別する、この事に大変な嫌気を覚えました。
とはいえ、全てフォローを返せばせっかくフォローしている人のツイートを読み逃しまくるだろうと思い、それも嫌でした。
だから適当なフォローをするのは避け、しっかりとしたルール付けをしていました。
そのルールは
「フォローをしてくれて、何かしらリプライをくれ、その際のやりとりで関係を持続していくようなニュアンスになる」
「知人」
といったものでした。
だから、例えば作品の感想を教えてくれる事は大変嬉しいですし有難い事だと思っていますし
割とねちっこく、どういう感想を頂いたか覚えていますが、それだけではフォローしまい、としていました。
それは自分の中で、YouTubeについた動画に対するコメントには基本返信しない(数も多く英語だらけで対応しきれない為)と決めており
ツイッターでも同様に判断しなければこれまた選別になるんじゃないか、とか考えての事でした。
そこまでルールを決めてようやく、フォローを返せるような気がしていたんです。
…高がフォロー返すか否かぐらいの話なのに、馬鹿みたいでしょう。

ですがまぁ、お察しの通りそんな絡みは滅多にありませんでした。
結果的に、有り難い事にフォロワーはひょろひょろと増えていき、情けない事に全然フォローを増やせないという状況になり
上記のような散々の理由を忘れていたのと相まって、見かねて「同業者という条件でフォローしよう」と決めてフォローしました。
…条件が緩過ぎたんでしょう、フォローして間もなく、選別してしまった際と同様の強烈な不快感に襲われました。
そして悶々とし、こんな日記を書かないと気分が晴れないぐらいには凹みました。

どうにも情けないのですが、やはり決めていたルールはしっかりと保とうと思います。
また忘れかねないので、ここに書きとめておきます。
…胡散臭いかもしれませんが、せっせとこうやって文章に書き起こすだけで
思考の記憶って驚くほど整理されますし、記憶を維持出来る時間はグッと変わるんですよ、本当に。
ツイッターで呟いた事はあっという間に忘れちゃいますが。


所懐
2013.04.12
どうも、ほぼ一月ぶりになってしまいました。

本記事は4月11日に書いています。
というのも、今回は12日に公開するであろう僕の新作アニメーションMV「スーサイド・バラッド」の反省をしようと思っての事です。
何故公開する前に反省記事を書くかというと、一般公開した後では多様な感想…
即ち、好意的な感想、批判的な感想、或いは無関心という一番辛辣な感想等々
様々な意見・感想が、否応無しに僕の耳に届くはずです。
すると、ただでさえ自分の作品なんて冷静に判断出来ないのに
そんな感想郡に埋もれては益々混乱してしまう為、混乱が個で閉じている今のうちに
出来上がった直後の手触りで諸々の所感を綴ろうと思った次第です。

因みに、「自分の作品は冷静に判断できない」というのは本当に深刻な問題です。
これは本作に限らず、これまで作ってきたあらゆる作品に対して言えるのですが
完成直後に本編を通して観て抱く感想は「なんてつまらないものを作ってしまったんだ」というものです。
これまでも、そして今回も同様でした。
無論、作っている最中は全身全霊を注ぎ、完成直後には満身創痍で死にそうです。
だからこそ。
そうやって心身を削って作り上げたものが実に下らないと思えてくるが為に
「完成した本編を最後まで見る」というのは、実際のところは大変な苦行だったりします。
宮崎吾朗監督が「ゲド戦記」の試写上映直後あまりのショックで立ち上がれなかった、というのは強く共感するところです。
本当に、辛いんです。
自分の作品を客観的に評価するには、相応の時間が必要です。
その作品が自分の手から離れ、時間が経ち、再会した時には赤の他人の作品のように思えた時、始めてまともに評価できる気がするのです。
というのもつい先日、「バケツの中のかか」を久方ぶりに観てそんな感覚を覚えたのです。
…「かか」の公開から3年と3ヶ月経過して、ようやくです。
それほどに、自分の作品というのはよく分からないんです。


さて、前置き長くなりましたが、本旨「スーサイド・バラッドMV」の所懐に入ります。
音楽に関しては僕がどうこういう立場ではないため、映像に関してのみの所感になります。

自分の作品を、駄目だ駄目だと頭ごなしに全部否定するのは簡単です。
でもそれはあまり有意義とは思えません。
ですから、自分なりに感じた「(以前に比べて)よくできた箇所」と「改善しなければいけない箇所」を列挙してみます。

それでは。

○映像の質(作画・色調)
前作「宮子」を制作した際、あまりに時間が足らず、作画は幾度となく崩壊してしまいました。
それが悔しくて悔しくて、今回は最初期から「作画には力を入れる」と決めていました。
甲斐あってか、「宮子」の時から比べれば色々と進歩したのではないか、と思っています。
とはいえ、制作終盤はやはり修羅と化し、丁寧な作画などしておれず雑な箇所もチラホラ見受けます。
まだまだです。
色調に関して、彼女にプレビューを観てもらった際「君の作品はどれも、全体的に白っぽい」と突っ込まれました。
僕は色彩センスに関して、彼女には全く及びもつかないと思っていますが、それでもそう言われると悔しいものです。
ですから必死になって、「カラフル・ハイコントラスト」を目指しました。
結果的に、これまでの僕の作品よりも色味をグッと前面に押し出せたんじゃないか、と思っています。
とはいえ、これはAEの加工機能をフル活用して出した色味です(加工だからといって、簡単ではありませんよ)。
出来ればSAIで描いている最中にベストの色調を選択していきたいところです。

○キャラクター設定
自殺の幇助を鉄則とする地縛霊…
斯様な設定を、僕はこれまで見た覚えがありません。
もしかしたらどこかに既に同様の設定もあるかも知れませんが、少なくとも僕自身は知りません。
そういう意味で、ちょっと変な設定を持ち出せたぞ、と少し得意気です。
…活かせたかどうか、は聞かないでやって下さい。

△キャラクターデザイン
これは「よく出来た」というよりは、挑戦した内容ですが
線の多いキャラクター、というのをデザインしました。
数百数千枚描くアニメーションにおいて、線の多さというのは大変ハイリスクな要素です。
大量のミスを誘発する可能性あり、作画の時間が膨大になる恐れ有り、着色が煩雑になる恐れ有り…
と、とにかく厄介です。
僕は、自身のアニメーション作品において「活き活きと、よく動く事」を絶対条件として作っています。
ですから動かすのが困難になる可能性の高い「線の多いキャラクター」というのは、これまで避けてきました。
「かか」のデザインなんて超シンプルに徹しています。
しかし今回、女の子は線をかなり抑え込みましたが、男性キャラクターは線だらけにしました。
…しました、というよりは、サラリーマンにしてスーツを着せたら線が増えた、というべきなのですが。
かなりの挑戦でしたし、実際、このデザインを随分恨みながら作業をしていました。
次はもっとシンプルにしたい…。

△線
これも「よく出来た」というよりは、途中経過になるのでしょうが…
僕は以前から「鉛筆で描いたような線」というのを、デジタル上でよく試しています。
何故デジタルでわざわざ、という疑問もあるでしょうが、それはまた別の機会に。
兎角、ずっと「鉛筆の線」を試行錯誤してきましたが、今回ようやく、それをアニメーションに持ち込む事にしました。
…正確には、持ち込み直しました。
というのも、「かか」ではそれに近い鉛筆風の線で書いていました。
しかしあれで線を引くと、大概の場合に「バケツツール」が使えないのです。
…えぇ、デジタル着色最大のメリットが使えないのです。
それでは作業効率があまりに悪いと「宮子」ではそれを放棄し
綺麗なデジタルの線を使いましたが、やっぱり何か違うのです。
それで今年の初頭から、どうにかバケツツールと鉛筆風の線を組み合わせられないかと試行錯誤した一つの結果が本作です。
まだまだ、改善の余地は多々あります。
多々ありますが、アニメーション作品に、効率化をあまり犠牲にせず、鉛筆風の線を持ち込めた、という事は
僕にとっては大変有意義なものでした。

×演出・ストーリーテリング
ストーリー自体は、最低だったとも素晴らしかったとも思えません。
…というよりも、自分の妄想を評価するのは大変阿呆らしい気もします。
しかし、その妄想をいかにして伝えるか、その部分は技術にも大きく依存します。
その点において、今回は本当に失敗したと思っています。
先ずいけなかった点として、"中途半端に"音楽に合わせようとしたことです。
元々ミュージックビデオというのは、映像のノリは音楽に依ります。
音楽がサビに入れば映像もサビに入る、そういった具合に。
すると、音楽のテンポにあった物語を形成するか或いは、音楽を無視した物語にするか、という選択がありますが
僕は音楽を半端に意識したおかげで、音楽のテンポと物語のテンポを最適化する事が全然出来ませんでした。
結果的に、あらゆる箇所でチグハグの演出が続き、どうにもしっくり来ません。
そしてストーリーテリングの技術、要は効果的な語り方だと思っていますが
僕は、4分であの密度の物語を効果的に語る方法をまだ全然持ち得ていませんでした。
10分ぐらい…もっとかもしれません、時間をくれれば…!なんて思いましたが
きっと映画監督などは2時間とって、あと1時間分撮らせてくれれば…!なんて思っているのだろう事を思えば
これは完全に甘えですし、単なる語り下手だったに過ぎません。
結局、その二つの要素が致命的に絡み、どうにも惹きこまれないものが出来てしまった気がしています。

×構図・フレーミング・レイアウト
どうにも僕の作る構図は大変「素人っぽい」ようです。
というのも、僕がそれらを全て脳内と記憶に頼って作り出しているおかげで
要は整合性の欠片もない、チンチクリンな切り取り方をしているのです。
その指摘に対して僕は頷く他ありません。
確かに変なんです。
なんか違うんです。
でも、何が違うかさえ僕にはまだ分からないのです。
大変残念な状況です…。
パパッと写真講座みたいなのをみて、構図の勉強を2日ほどした覚えもありますが
…まぁ、そんなのでどうにかなったらプロなんか要らないって話ですよね。
何か対策をしなければいきません。

×決め画
アニメーションにおいて、一枚絵を表示するカットというのが必ずあります。
僕はそこさえも動いてほしい、なんて思ってしまう性質で、バシッと決まる瞬間が中々ありません。
また、その一枚絵のフレーミングも未熟ゆえ、惹きこませるものが中々ありません。
これは無限の練習をしない限り上達しそうもありませんが…
やんなきゃしょうがないです、グッと魅せられる絵を描けるよう練習しよう。
…言うは易し行うは難し…頑張らねば。



ドダダダダっと、所感でした。
毎度の手前味噌状態で書き記している気がする、制作期間と作画枚数ですが
制作期間は3ヶ月弱、作画枚数が2300枚弱でした。
…キャラクターの線の密度が違うとは言え、「かか」が3ヵ月半で3600枚描いた事を思えば、ペースダウン激しいですね。
でも「宮子」が1ヵ月半で800枚ぐらいだった事を思えば、少しよくなった…のでしょうか。
うーん。

とりあえず。
まだまだ勉強しないといけない事、練習しないといけない事、改善しないといけない事だらけです。
でもどこか、何の根拠も無しに舞い上がって天狗になっている部分もいっぱいあるような気がしています。
天狗になって木に登れば、落ちる時は真っ逆さまです。
愚かな天狗にならない為にも、自分の作品を客観的に観る眼も同時に養っていかねばと思うばかりです。
…課題山積過ぎるなっ!

でも着実に前進していく為にも、不断の努力を続けていきたいところです。
兎だけども。



(追記)
追記を書いている現在、告知予定の1時間ほど前です。
…やんなきゃいけない作業が詰め掛けてあるのに、手が震えて作業にならないw
全く情けないなぁ…
大言壮語を吐いて、強弁ばかり述べて強がってみるけど、実際はこんなもんです。
怖いんだよ、本当に。
出来るなら作品だけ放り投げて、全力で逃亡したいですよ。
後は任せた!なんて言い残してw
…でも、それじゃあ絶対駄目です。
優しい人の優しい反応ばかり見て安心しててもきっと駄目です。
匿名で、良い意味で責任から解き放たれた人らの歯に衣着せぬ意見も、真っ当であるならば真摯に受け止めなきゃ駄目です。
そうじゃなきゃ自分の位置が分からないし、分からなければ、自分と目標との距離も測れない。
どんな反応であれ、向き合わないと…。


自分語り
2013.03.17
本日(3月17日)深夜、下記で紹介した「デス・ビリヤード」が関西YTVにて放映されるそうです、ハヤイナ!
詳細はこちらからどうぞ。


唐突ですが、最近の自分の実態をつらつらと書こうと思います。
えぇそうです、巷で有名ないわゆる普通の日記です。
普段変な思想ばかり垂れ流しているので、いざ普通の日記を書こうとするとまともに書けそうな気がしませんが…三つほど小話を。



先日、家から徒歩15分の最寄り駅まで走って行きました。
小走りでおよそ5分の距離です。
…なんともまぁ信じ難い事ですが、走って行った次の日、両足筋肉痛になりました。
えっ。
僕まだ24歳ですよ。
えっ。
…どうやら僕の身体は今、小走り5分が辛いようです。
筋トレは続けているのですが、どうにも足腰が死んでるみたいです。
参ったねっ。
…って茶化してないで、なんか対策しないと…。
…筋肉痛で思い出しましたが、京都に来て極端に人と話す機会が減りました。
そんなある日、母から電話があり、続けて友人とスカイプで談笑、その後立て続けに彼女さんとスカイプで談笑した次の日…
顎が軽度の筋肉痛になった事もありました。
…自分でもびっくりの劣化ぷりです、どうしようこの体。



話変わりまして最近、公園一人飯を復活させました、実に1年ぶり!
…公園一人飯というのは、公園にご飯を持って行って、或いは買って行って
一人でベンチに座ってのんびり食べる…という、すごく寂しい感じのアレです。
何気に公園一人飯の経験は5年近い自称中級者です、何の自慢にもならないねっ。

元々、小学校の頃から親が共働きだった為、晩御飯は雑誌を読みながら一人で食べるというのが当たり前でした。
それが習慣になったおかげか、人と一緒に食べるのも結構好きなんですが
一人でぽかーんと食べるのも落ちつけるので好きなんです。

好きとはいえ、今は1週間の21食中19食ぐらいは一人飯という有様です。
公園一人飯をする前は、19食、パソコンの前に座って一人黙々と食べていました。
ほぼ一年間そんな調子でしたが、流石に堪えましたw
京都でいい加減に知り合い作れって話ですが、いざ知り合いを作るとそれも面倒臭いっという情けない性分。
そんな訳で精神的に弱りまくっていたわけですが
近場の公園まで出向いてベンチに座ってのんびり昼ご飯食べてみると…凄いですね。
驚くほど気持ちにゆとりが出ました。
なんか落ち着くんですよ。

これまで公園一人飯をしていたのは単純に人気を避けての発想でしたが
日光浴びながらのんびりマイペースにご飯を食べる事が、こんなにも心地良いものだとは知りませんでした。
あとやっぱ散歩です、散歩しないと発狂しそうになります。
んなもんで、もう二週間近く平日は欠かさずに公園一人飯です。
いやぁ、公園様々です。

あとは、仕事を終えてもう少し精神的な余裕が出来たら、散歩ついでのゴミ拾いをいい加減再開したい。
もう1年以上サボってます、前の日記であんな偉そうな事言ってたのに。
因みにゴミ拾い、社会貢献の意味合いも勿論ありますが同時に、精神衛生上とても宜しいんですよ。
習慣的に外を出歩く人、是非お試しあれ、心がスゥーっと晴れ渡ります、たぶん。


…凄まじい身体の衰えと、散歩に飢えている様を冷静に顧みて、なんかお爺さんみたいだなぁと痛感します。
親しい友人に「お前はお爺さんと少年とが混じってる」と評された事がありますが、今になって実感しています。
確かに、友人といる時は嬉しくって、傘とか振り回して歩くもんですから友人によく怒られていましたし
一人で歩いている時でも、未だに白線の上を歩くのが大好きです。
24歳にしてどんな餓鬼だよって様ですが、一方で5分小走りするだけで筋肉痛になりますし、趣味はもっぱら散歩です、他には銭湯など。
そして今一番興味あるのは苔玉作りです、これは限りなく盆栽みたいなもんです。
滅茶苦茶お爺さん趣味です。
…僕はどうやら友人の言うとおり「爺と餓鬼の混合物」だったようです。
いやはや、通りで。



あと、瑣末な話ですが…
一人暮らしを始めて6年、自炊をまともに始めて1年目にして、初めて「肉を冷凍する」という事を知りました。
肉って賞味期限内に必死こいて食べ終わらないといけないものだとばかり思っていました。
ですから一人暮らしには些か量多いぞチクショウとか思っていたんですが、冷凍できると知って肉買いまくりです。
しかも2,3ヶ月は平気で持つんだとか!
何だよもっと早く教えてくれ…って、みんな小学生のうちに母親の手伝いをしながら自然に学ぶんでしょうか。
何だか人生、色々と遅れて生きてます。
兎だけに、これまでいっぱいサボってきたのさ…。


と、最近はこんな調子でした。
普通の日記、ちゃんと書けていると良いけれど。


アニメミライ「デス・ビリヤード」から、平等について
2013.03.13
相も変わらずアニメーション制作に(ry
納期も迫り、「追い込みだッ」と睡眠時間ガツガツ削ってやっていたのですが
見事に体調を崩し、風邪で喉をやられてしまいました。
…とはいえそれも5日ぐらい前のこと、今はもう完治した気でいるので
今一度、完成まで気を引き締めてやっていきたいところです。

それはそうと、試験だとか納期だとか、何かと明確な期日のある場合
よくよく「二徹で頑張って乗り切った!」みたいな発言をみます。
正直な話、個人でやるアニメーション制作において、これほど無意味なもんもありません。
二徹で出来る作業量なんて高が知れていますから。
それよりも、作業内容が確定してきた段階(絵コンテなど根本的なちゃぶ台返しの可能性が無くなった段階)から
コンスタントに睡眠時間を4,5時間に抑えて作業出来るほうがずっと大事です。
期日直前だけ死に物狂いで頑張る!なんて誰でも出来ますからね。
多分、何事においても通用する話だと思いますから、本当に大事な何かの時には、是非お試しあれ。
体調には最大限気を遣いつつ!


下記の「赦免」について、一つ書き忘れていた事がありました。
「被害者様」という考え方についてです。
単純な話、被害者であればどんな主張も罷り通るかといえば、無論そんな筈もありません。
例え身内が殺されようと、怒りに我を忘れ犯人を殺すのはどんな事情であれ碌な事じゃあありません。
それは、負の連鎖である事は勿論、被害者である人間が相手の心情を考えないのはあまりにも御粗末だからです。
だから被害者は、過失者に対してどうこう出来る立場でもないと思うのです。

これは僕の考え方ですが、「許す」事は正義とも真の強さとも思えません。
過失者と被害者とが現れた場合、被害者の真の強さは「黙して待つ事」だと思うのです。
過失者が自身の過失に気付き、精一杯過失を取り戻そうとするその一連を、ひたすら待つ事だと考えています。
もし過失者に過失を取り戻すだけの誠意が無いならば、許すも許さないもありません、放っておく他ありません。
或いは、被害者にどうしても思うところがあるならば、説教の一つでもしてみれば良いのではないでしょうか。
ただ、ここでも「被害者様」になってはいけません。
過失者に行う説教は「罰則」の意識ではなく、被害者の考える「人としてあるべき姿」を説いて教える事です。
昨今の体罰や躾の問題と同様で、人は人を裁くべきではありませんから、あくまで自身の哲学を伝えるのみです。
それでも期待する反応が得られないのであれば、二人はそこで縁を切るべきでしょう。
どうしても切りたくない縁ならば、諦めずに説き続けるか、諦めずに待ち続けるしかありません。
決して、「被害者様」を振りかざして反撃に出るような選択肢はあってはならないと僕は思っています。
その点のみ、追記させて下さい。


先日、アニメミライに行ってきました。
昨年は見損ねたので、2回目の文化庁アニメーションです。
ガツガツネタバレ入れるのでお気をつけて。

全体を通して、アニメの表現可能な幅の広さにただただ圧倒された、という印象でした。
ファンタジーを織り交ぜた時代劇から始まり、近未来のネットワークによる肉体と精神の乖離の話
そうかと思えば現代人と現代風の舞台でビリヤードの話や、完全ファンタジーの魔法物語だったりと
文字通り多種多様な映像劇でした。
さらには見る人も選ばず
時代劇はターゲット層がよく分かりませんでしたが
近未来ものは深夜アニメを好むようなアニメファンに受けそうでしたし
ビリヤードは大人が楽しめそうだと感じましたし
魔法物語は老若男女がワクワク楽しめそうなもので、何よりも子供が楽しめそうだと思いました。
映像の舞台、語る内容、楽しめる年齢層…どれも本当に幅広く
これだけ自由な表現方法もそう多くは無いだろうなぁと心底思いました。
ただ、作品の尺が「30分」しかないという本企画の最大の縛りのせいか
舞台設定は使い古されたものばかりでした。
時代劇は「竜馬暗殺」、近未来は「精神が他人の肉体に入り込む」
ビリヤードは「SAWから始まったデスゲームもの」、魔法物語は「王道魔法ファンタジー」
…といった具合に、あっさりカテゴライズ出来てしまうような代物ばかりでした。
でも、それに「気づかれる事」は寧ろ制作側の想定していた事だろうと思います。
「SAW風のデスゲームか」と察してもらえれば、楽しむべき本質も見えてくるというものですから。
ですから「お約束」を早々に察してもらった上で「楽しんでね」というように見えました。
勿体無いなぁとも、仕方ないなぁとも思うところですが、贅沢を言わせて貰えば
一つぐらい設定で「おぉ」と言わせるような物が欲しかったのも事実です。
兎角、来年も是非続けて欲しい企画です。

中でも、個人的にはビリヤードのお話がとてもツボでした。
僕の追い求めている表現が劇中のあちらこちらで実践され、またそれが大変巧く機能しているよう思えました。
お話に関しても、個人的には大変好みでした。
以下、一番大きなネタバレに触れるので要注意を。

物語のラスト、30代の男が「人生は、あらゆる要素で平等ではないっ!」と迫真の叫び声を上げます。
これは本当に触れがたい話題です。
世界中で「平等でありたい」「平等であるべきだ」と仕切りに叫ばれるようになった昨今ではありますが
誰もが「そんなものは幻想である」と知っています。
でも、誰もその話題を積極的に扱おうとしません。
そりゃあ、解決するような問題ではありませんからね。
究極に平等などあり得ず、常に不公平が付き纏うというものです。
この話題に関して、ちょっと前からずっと考えている事があります。

身分差、というのがどこから生じたかご存知でしょうか。
身分差とは平等とは相反する代物です。
僕も高校の教科書で読み知った程度なので怪しい知識ではありますが
身分差は「貯蓄の差」から生まれたそうです。
古く、食料の貯蓄に差が生じ、それがゆくゆくは組織のリーダーを作り、組織間で争いが生じ
勝ちあがった人間がどんどん上の身分として世間に認知されていった…という訳です。

この「平等」に相反する「身分の差」、即ち「貯蓄の差」は数千年経った今でも何一つ変わっちゃいません。
それどころか下手をしなければ、「貯蓄の差」は延々と広がり続けるように出来上がってきました。

単純な例え話。
二人の爺様がおり、片方は500万、片方が100万の貯金を持っていました。
それを元手に、双方の息子が等しい能力でそれぞれを、5000万と1000万に増やしたとします。
するとその息子らは、生まれながらにして「4000万」もの差があるのです。
そしてそれは子孫らに延々と広がり続ける「差」として続くでしょう。

このような事態が悪化しないよう為に、相続税というものが用意されているのだと思います。
とはいえ決して抜群の効果を発揮しているとも思いません。
一時、相続税を増やし、どれだけ稼ごうと三代遊べば一銭も無くなるような事もあったそうですが
それもなんだかなぁと思うばかりです。

そこで悶々考えて、妙なことをずっと思案しています。
方々に話してみては微妙な反応しかえられないあたり、多分妙案ではないのでしょうけどもw

「貯蓄制限」というものを、シンプルに作れないかと思うのです。
例えば、成人は個人で1000万の貯蓄を限度とし、それを超える分の貯蓄は年度を跨ぐ際に税金として徴収する。
結婚すれば、夫婦で2000万の貯金、子供一人増えるごとに500万ずつ貯金限度額を上げていくのです。
そして子供が成人した段階で、扶養家族の枠組みから外す事が可能になり、外した段階で貯金限度額を下げる。
そして馬鹿げた所得税を廃止し、その分消費税を上げるのです。

そうすれば、お金はぐるぐると市場を回り始めるんじゃないかと思うんです。
所得税がありませんから、稼いだら稼いだ分だけ稼いだ人が好きに使うのです。
おまけに貯蓄制限がありますから、サッサと使ったほうがよい。
すると消費は増えますから、所得税がない分消費税で補う。
消費税はグンと上げて世界的にも高水準にして構わないから、その分医療費を下げる。
その他、社会不安を取り除く社会福祉に税金を入れ、貯蓄出来ない事によって生じる不安を減らす。
また金融機関による個人への投資の敷居を下げ、例えば起業するのに大金を要する際はそこから頂く。

…等々、なんか出来ないかと考えています。
勿論問題が山積してる事ぐらいは百も承知です。
一番現実味が無いのは、国際的に同時に展開する必要性です。
でないと、国外にお金が逃げていくとしか考えられません。

ですが、これがしっかり機能するならちょっと面白いんじゃないかと思うんです。
かつての「一億総中流」を見事に実現出来るんじゃないかとか、ちょっと思うんです。
貯蓄の差が減る、即ち身分差が縮まりそう。
全体的な貯蓄額が減る、即ち市場に出回る総額が増えそう。
所得税という馬鹿げた税金を消しても、大量発生するであろう消費に対する税金で補えそう。
…と、都合の良い妄想を展開しているところです。

ですが「大量消費はもう止めようよ」という時代ですから、それだけで駄目な気がしますが。
大量消費でわんさか楽しんだ世代が、下の世代に消費を抑えて質素に生きようと説くなんて…
そんなの、平等ではない!

…と言い出すと、愚痴にしかならないですから理想論的に
次の世代が史上最も幸福な世代になるよう、今の世代が頑張ってみるしかないんですよね。
そしてそれを連鎖的に続けていく事、多分これが一番平等にみな幸せといえるんじゃないかなぁなんて思います。



赦免
2013.02.28
アニメーション制作に忙殺されています。
納期も着々と近付いているのに、未だに絵コンテ弄ってるし、焦燥感しかありません。
でも、「宮子」も室内着のデザインを確定したのは動画完成の5日ぐらい前だった気がしますし
絵コンテなんて完成の3日前ぐらいに完了した気もします。
宮崎駿監督も絵コンテ描き途中に制作ラインを動かして作画も並行する監督として有名ですし、そんなもんですよね。
悪い習慣といわれようと、アニメーションってのは、睡眠時間を削ってひぃひぃ言いながら作るもんです。
それでも楽しい、変なことです。



先日、ツイッターで「あまつぶ」のpurikokoさんと「許し」について少し語りあいました。
方々に要らん誤解を与えた気もするやり取りになってしまいましたが
「許し」とは僕にとって、ほぼ一つの事柄に対してのみ何時までも考え続けている概念です。


「許す」という行為には、必ず「過失」が付きまといます。
何も無い状態では何を許すもありません。
一般的に、その過失の程度に対して、許すのが困難になったり容易だったりするのだろうと思います。
過失者は己の過失の重大さに気付ければ、罪悪感に苛まされ自ずと周囲に礼節を尽くすでしょう。
勿論、精神疾患等ある場合は別です。
兎角過失者は、自分なりに自分の過失を取り戻そうとする筈です。
ですからその者の動向を見て、人はその人の心情を理解し同情が芽生えれば許せるというものだろうと思います。

ここに同情を用いるのは、僕の実感ですが
許す立場の人間が情けないほど、過失者に対して甘くなるものです。
何故なら往々にして過失に対して理解出来てしまうからです。
同様の理由で、許す立場の人間が立派なほど、過失者に対して厳しくなるものです。
勿論、他人に対して共感の薄い人間はこの限りではないと思います。


これが、僕の中に昔からあったであろう「許し」の感覚です。


ところで昨年、僕の大変近しい人が僕の近しい人らに対して大変な過ちを犯しました。
僕の明日の生き方を変える程の僕に対しての大事ではありませんでしたが
過失者とその被害者、僕よりも過失者に近しい人らは、その過失の瞬間を境に人生の流れを大きく乱されました。
僕も、長い目で見れば確実に人生をかき乱されました。
平凡に生きてきた僕にとってはそれは大変ショックな出来事で、僕は散々に泣きました。
僕の大切な人らも、散々に泣いて苦労する羽目になりました。
ですが、僕は過失者を憎む気もありませんでした。
それは昨日今日知り合った人間ではなく、長い付き合いがあり、誠に良い面も知っていたからこそです。
ですからきっと、僕なりに納得のいく「過失者の礼節」を見れたなら、起こした過失は大きなものでしたが許せたと思います。
そして、過失を取り戻すために共に努力しただろうと心から思えます。

ですが察しの通り、過失者からの礼節は一切見受けられませんでした。
そうです、謝辞の一つさえ無かったのです。
それどころか、過失を取り戻す為の協力をしてくれない事に対し、文句を言うのです。
僕はどうにもこうにも困惑しました。
許せるものなら許したいのです、なのに許せない。
いっそ無関心になって一切干渉しなければ良いのかも知れませんが
長い付き合いはそう簡単に無かった事に出来るものでもありません。
もうどうしていいのか、全然分からないのです。

そうこうしてもう1年以上経過しています。
気持ちはどんどん煩雑になるばかりです。
そして未だに、その事柄についてひたすらに「許し」とは何なのか悩み続けています。


一つ、「許し」とは直接の関係の無い話ではありますが、最近妙に思い出す事があります。
大学の卒業式にて、学科の教授の話していた事です。

人は必ず、何かしらの問題につまづいて悩んだり心を痛める事がある。
だがその痛んだ心は、時間が必ず解決してくれる。
失恋でも何でも、「時間」こそ最高の薬だという。
だが、問題はその限りではない。
どれだけ時間が経とうとも、問題は能動的に取り組まなければいつまでも問題のままだ。
だから、ちゃんと問題を見つけて解きなさい。

…という話でした。
最もの話だろうと思います。
こんな話を持ち出したのも、この話が妙に「許し」について考える際、引っかかるからです。

「許し」の場合、被害者も過失者も、各々が何かしら心に傷を負います。
でもその傷は、時間が経てば必ず癒えるものです。
ですが「過失者の礼節」の無い場合、被害者と過失者の間にある蟠りはどれだけ時間が経とうと消えないでしょう。
それは個人の心の傷ではなく、何かを隔てた「問題」だからです。
しかしここにもう一つ、僕が懸念している事があります。
被害者にとってその「問題」は消化不良のままにいつまでも燻りますが
過失者にとっては「問題」は時間経過で瑣末な事へと変化するのではないかと、最近よく思うのです。
というのも、過失者は「過ちを犯した事」と「許してもらえない事」とが傷となりますが
それらは時間経過で勝手に癒えてしまうのです。
前者は「仕方なかった」と、後者は「確かに悪かったけど、許してくれないなんて心の狭いやつ」と。
すると「問題」の大部分は被害者に責任転嫁され、過失者が「問題」に能動的に取り組む意欲は失せるのでは無いでしょうか。
えぇ、こんな話をすれば過失者は論駁加えんとするでしょう。
確かにそうでしょう、調子の悪い記憶はいつまでも残りふと思い出しては過失者を苦しめるでしょうし
被害者との蟠りだって、「問題」としてやはり残っているのですから。
ですが被害者は、一方的に被害を被りおまけに「問題」を残していかれるのです。
更には、過失者が相応の礼節を尽くさなかったがばかりに
被害者は、「過失者を許せない狭量な自分」に葛藤する新たな傷を生むのです。
「許せることが強さ」だなんてとんでもない主張が罷り通っているからこそ。
勿論、過失者はそんな被害者の苦しみなんて知りもしないでしょうから、お構いなしです。
この間被害者と同じく、過失者が「礼節を尽くせなかった事」を悔やみ続けていればまだ救いようもあるでしょうに。

よくいう「虐めていた人間は虐めていた事を忘れ、虐められた人間は忘れない」というのに似ていますね。
そんな事思うと、そもそも人という生き物は、過失したほうが最終的に気楽なのかもしれません。
…だからと言って、過失者になろうとは到底思えませんが。

どうやら、「許し」というのは果てしなく厄介かつ、不変的な問題のようです。
自分の手許に残ったこの「問題」をいずれは解決出来るのか、今の僕には芥ほどの自信もありません。



氾濫と本質
2013.02.18
「デザインの無報酬」について、まさか三回も書く事になるとは思っていませんでした。

というのも、前回紹介した ユーレカの日々[19]「デザインはなぜ無報酬とされたのか」
に対し、反論の記事が出ていたのです、下記。
「デザインはなぜ無報酬とされたのか」に対する芸術家からの反論

…後者の方(芸術家)の主張を読んでいて、僕の主張は明らかに、明らかにこの方に近いのです。
前回の中でも、前者の方(デザイナー)の主張に対して
僕の話は要は、それなりにスポーツの出来る人間に1年間コーチを頼んで「無報酬」は無いでしょう、と言う事でした。
と、「職人」という意識では無いと明言しているのです。
つまり僕と前者の方の主張では、主要な箇所はまだしも、細部において相違もあるのです。
なのに何故か納得させられていましたし、後者の方の指摘する誤謬に対して疑念を抱く事も出来ませんでした。
情けなし。

しかし芸術家の主張の最後にある件、「無知、無理解、想像力の欠如」について思うところがありました。

これは僕が当事者であるが故、また僕がそこであぐねいているからこその視点だとは思いますが
「アマチュア」の氾濫について双方さして重要視していないのは、僕には釈然としません。
今回の「デザインの無報酬」において
PCとインターネットの普及に伴った「アマチュアの氾濫」を僕は重要だと思うんです。
デザイナーの方は、誰でも気軽に出来るようになったと簡単に触れてはおりますが
問題はそこからであり、趣味の延長で「上手な素人」が間違いなく増えた事は、注視すべき事だと考えます。
勿論プロからみればあくまで「素人の技術」でしかないのは言うまでもありませんが
それはプロからみたら明確な差があるという話であり
その領域の素人が「プロ」と「上手な素人」の差異にどの程度気付けるかというのは疑問の残るところです。
ここ数百年の芸術に関しても、素人が「学生の画」と「プロの画」との判別に大変苦労している様をよく見ます。
ですから決して大げさな話ではないはずです。

斯様に素人目線にこだわるのは、仕事を発注するのが往々にして素人だからです。
ですから発注者は大概の場合に「上手な素人」と「プロ」とを比較した際、その最たる違いに中々気付けないでしょう。
「確かに素人はプロに多少劣る」程度の判別しか付かないのであれば、氾濫気味の「上手な素人」は大変勝手が良いのです。
こういう話をすれば、違いを見せ付けられないプロは駄目だ、と指摘されそうですが
明確な違いを出せるほどの技術があればあるほど、プロとして安請けも出来ない事でしょう。
一方で「上手な素人」は、自身を素人と自覚しているが故、破格で請け負ったりするものです。
それこそ、最低賃金なんて比にならないような価格だったりするのです。
というのも僕も、自分を「上手な素人」と評するのは憚られますが、分からぬ頃は非常に安い値段で請け負っていました。

このように、違いの明確に分かる「破格の上手な素人」と「相応の価格のプロ」であれば
発注側に高い意識が無い限り「破格の上手な素人」を選ぶでしょうし
大差ないと判断された「破格の上手な素人」と「安い価格で請け負うプロ」であれば、勿論「破格の上手な素人」を選ぶでしょう。
すると「安かろう悪かろう」で構わないという認識が蔓延り、全体的に質を下げていくのは十分考えられます。
しかし一方で、質の低いものや趣味で楽しむ人が増える事は、業界人口の全体的な拡張にも繋がるという指摘も可能でしょう。
ピラミッド構造でいうなれば、下層(土台)の部分が広がれば上も大きくなれるという話です。
ですがそれは、資本主義においての最低限の「資本」が回っていてこそだろうと思います。
それすら回らない業界では、いつか総崩れする自転車操業も同じでしょう。
実際に、モバイルゲームの市場はその状況が長い事蔓延っているのではないでしょうか。
前述した僕のケースは、その市場での仕事でしたから。
一つそういう市場が出来上がると、それに倣って
益々「創作行為に対価はさして必要ない」という認識が広がるのではないかと懸念しています。

悪い感覚だとは思いますが、創作行為に浸っていると「いつかは必ず本質が勝る」と信じてしまうものです。
質の悪いものにはいつか皆嫌気がさして、いいものを求めてやってくると。
ですが周りを見渡せば、数多の要素がかつてより劣化しているのです。
そうですとも、悪貨は良貨を駆逐出来るのです。
あらゆる本質ではない要素が、本質を凌駕しようとしてくるのです。
利便性かもしれません、規制かもしれません、資本かもしれません。
それらは押並べて本質にはなり難いものです。
ですがそれらによって、沢山の本質が蔑ろにされるのです。
何かしら本質の欠如した空間で生きる事は決して嬉しくない筈なのに、人は平然とそちらを選んでしまうのです。
惰弱、或いは本質を見誤るが故。

冒頭に紹介した、方々に主張出来る強い人々のように
創作行為に身を投じそれを生業にしようとする人らは皆、ひたすらに「正確な本質」を喧伝していく必要があるでしょう。
それは、生業にする人らにとっての死活問題であると同時に
本質で満たされた空間は誰にとっても、今よりも良い場所になりうると確信しているからです。
ですから一人でも多く、良貨を選択する事のメリットに気付いてもらえるように努力をし続けられたらと思います。



耽々
2013.02.16
暴走気味に作った動画コンテ様のおかげで、背景に忙殺されています。
しかし描くほどに思い知らされますね、この下手糞!って。
でも僕は肌で感じられる空間が欲しいですから、やっぱ逃げも出来ません。
自分の首は、自分で絞めるもの…。


それはそうと先日、デザインの無報酬の話について長々と書き連ねましたが
もっと的確分かり易く「無報酬は違う」と意見してくれている方がおりました、下記にて。
ユーレカの日々[19]「デザインはなぜ無報酬とされたのか」

僕があーだこーだと下手にややこしく言った内容は、大方上記の文章ですっきり説明されていました。
ただ一点違う視点もありまして…
この方はデザイン等のクリエイティブな行為を「職人」的に捉え
「長年の経験によって培われた知識を駆使して得られるメリットを受けるのに、お金を払わないわけにはいきまい」と言うのです。
最もだと思いますし、説得力もあります。
一方の僕は、この方の文章内にも出てくる「スポーツ」的な視点から、物申していました。
僕の話は要は、それなりにスポーツの出来る人間に1年間コーチを頼んで「無報酬」は無いでしょう、と言う事でした。
そしてこの方も僕も、違う視点から語りながらも「ボランティア」の危険性に帰着しています。
…まぁ、ちゃんとお金を回しましょう、と言いたいところです。

それにしても、この方の文章には随分と感服します。
実に読み易く、説得力を持って書いているなぁと感心するばかりです。
自分の文章は毎度ながら、読み返えば恥ずかしい限りです。
変な言葉、変な言い回し、変な文章、変な構成が延々続き、読み難いし意図は伝わらないし一貫性も乏しい。
…本を読む習慣が無いからこんな様になるんでしょうね。
どうにかしないとな…。

と言いつつ、いつまでも大して進歩の無い日記を書き続けるのも
書かないともっと悲惨になる事を、自分の程度からよく知っている為です。

絵でも同じなのですが
しばらく一枚絵を描かない、或いは描いても衆目に晒さないでいると、不思議と感覚がどんどん狂っていくのです。
というのも今の世の中、優れた代物がインターネット上に溢れかえっていますから、目だけはすぐに肥えるのです。
すると、「この絵はここが可笑しい」「この絵はもっとこうしたほうが良い」なんて感覚だけ身について
気付いたら「自分はもっと描ける」と思い上がるのです。
それは描いていないから起こる勘違いです。
そして実際に描いてみて、この程度も描けなかったのかと失望し、実力を再確認する羽目になるのです。

ですが、常々自分の実力を曝け出していれば、少なくとも自分の程度は見えます。
文章や書き連ねる思考とて、同じ事です。
自分の文章の拙さや思考の稚拙さは、誰よりも先ず自分で理解しておく必要があると思っています。
「上手く書けないから」と書く事を避けて、一体いつまともに書ける様になるのでしょう。
「自分の考えに自信が無いから」と伝える事を避けて、一体いつ自分の考えに自信を持つのでしょう。
取分け後者に関しては、自分の思考なんて間違えていて当たり前なのです。
思考の尺度は常に一個人の枠を出ませんし、その時々で「正しさ」なんて飄々と変化していくのですから。
もう消えてしまった古い日記で、物事の多面性について延々書いて
反定立を認めて尚、真っ当だと思える定立を主張したいと書いた事もありましたが
結局自分で察する事のできる「多面性」なんぞ高が知れているのです。
主張する際にどれだけ「こんな反論も出るだろう」と分かったつもりでいようとも
常に予想だにしない視点からの意見が飛び出してくるものです。
ですから、思考の結果など主張して何ぼなのです。
自分の主張を表に出して叩き直さねば、その主張は何時までたっても独善でしかありません。

僕は喧嘩なんて嫌ですし、自分の主張を散々に扱き下ろされるのも嫌です。
また主張のせいで人に嫌われるのだって嬉しくありません。
ただ、意見を交わしたいのです。
ですがどうにも、僕も学生時代はそうでしたが
こういう主張合戦は必ずしも居心地良いものではありませんから、歓迎されません。
ですがもっとこう、爽やかに快活に意見をぶつけられるような状況になればなぁなんて期待しています。

…こんな事言いながら、僕も全然好きじゃないんですけどね(゜ω゜)
だからこんな奥まったところで、コソコソやっているわけです。
こういう馬鹿げた僕の主張を面白がって読める人だけ読めれば良いやって、臆病なやり方です。
偉そうに言いながらこの様ですからね、いつまで経っても進歩しないんでしょう。



常識と沈黙
2013.02.14
昨今、と言っていいのか分かりませんが
「僕の知っていたこの国での常識」は物凄い速さで「非常識」へと摩り替わっているように感じています。

日本の文化体系は古くから「恥」によって成立していた筈です。
こんな事したら恥ずかしいから止めよう。
こんな事したら恥をかかせてしまうから止めよう。
そういう「恥」の認識が古くから日本人にとっての常識であり、仕来りであったのだろうと思います。

その「恥の文化」は、外国から見た時に初めて異様な文化と認識されて発生した言葉だったようです。
というのも、諸外国は「罪の文化」で成立しているのが一般的だったからだそうです。
こんな事をしたら罪になるから止めよう。
斯様な罪の意識で人々は社会を作っているようでした。
そしてその「罪」は、法によって厳格に定められており、行為として許される事とそうでない事は明確な線引きがあるのです。

しかし、日本の「恥」にはそんなものありません。
だって「恥」の線引きを厳格に定めるなんて、見っとも無い、恥ずかしいじゃないですか。
恥ずかしいと思う行動をみかけたら、誰かが「そんな恥ずかしい事は止めておけ」と諭してそれで良かったのです。

ところが、西洋文化の流入に伴ってか「恥」はどんどん調子を悪くしたように思えます。
一つに悪かった認識なのだろうと思うのですが気付けば
一々諭すほうが恥ずかしい、或いは、諭せると思い上がるのが恥ずかしい、と良識ある人らが黙り始めたようです。
察するに、誰もが恥を自ずと覚えて自重するだろう、そういう認識もあったのでしょう。
ですが、実際はそんな筈もありません。
流れ込んできた「罪」の意識は「恥」の意識を希薄にし、今では恐らく対等或いは「罪」の意識の方が大きいように感じます。
というのも「そんな事したら恥ずかしいから止めろよ」と言おうと「違法じゃないから良い」と返されるのです。
そんな流れで結局なんでも「法を整備しろ」と叫びだし、こんなに住み難い社会も無かろうと思います。

勿論、「恥」を賞賛するわけでもありません。
実際問題「恥の文化」の窮屈さが、今の日本人のぶっ飛び具合に繋がっているのだろうと思います。
「恥」の概念は人々の相互監視を助長し、やりたくても出来ない事も多かったろうし
少しでも可笑しな事をすれば瞬く間に仲間がいなくなるような社会を作っていたでしょう。
ですから「恥」は没個性を推奨するような気持ち悪い側面もあるんです。
自分の肌に合わない輩を除け者にしよう、という発想が恥ずかしいものだと思えれば、幾分かマシだったのかもしれません。
また「恥」は時に、都合の良い攻撃道具に利用される事も多々あったでしょう。
人々の深層に根付いた意識はどの時代においても、権柄に都合よく扱われるものですから。
本来なら無論、「権力の為」なんて恥ずかしい事で認められないものだったろうに、です。

兎角「恥」と「罪」、この二つがこんなにも煩雑に人々の意識に根付いている国はここ日本だけだろうと思います。
だから「常識」も実に崩壊し、「恥」をもとに常識を語れば「罪」の観点から非常識になり
「罪」の観点から常識を語れば、とっても恥ずかしい人にみえるでしょう。
ところが、結局のところ「罪」には罰があり、「恥」には暗黙の了解しかないのです。
ですから大多数にとって、それは可笑しくないかな、という行為でも大々的に平然と行われるようになってきた様にみえて仕方ありません。
しかし「恥」に則って生きている人は、黙り込んでしまうのです。
例え声高に「そんな見っとも無い」と言おうとも、可笑しな行為の首謀者が「罪」を基準に動いているならば
違法じゃない限りはその可笑しな行為を止める事など一切出来ないのですから。
要するに、「恥」に則った人らにとって、自分の「常識」はもはや常識として成立していないのです。
そりゃあ当然です、「恥」には厳格に定められたものも罰則もないからです。
しかし「罪」にはそれがありますから、分かり易い「最低限の常識」として成立しているのです。
沈黙は金と信じてやまない「恥」の人らは、押し黙るばかり。
「恥」から解放された気分でいる「罪」の人らは、自らの奇行を喧伝するばかり。


でも、これで良いのでしょうか。
僕は心底疑問です。
古い慣習に束縛されているだけだ、といえばそれまでです。
新しいものに浮かれているだけだ、といえばそれまでです。
ですが、深層心理においての認識の食い違いは、どこまでも不幸をつれてくるような気がしてならないのです。
どこかで、深層心理を仕切り直しを出来ないか、そんな事を夢想しています。


芸術とやら
2013.02.13
先日、文化庁の出した芸術の意義認識が酷い、というのを見かけました。
その内容は、どうにもこうにも「芸術を活用すれば洗脳出来ます」と見て取れるようなものでした。
ですが結局のところ、上に予算を出してもらう為のその場しのぎの見解だったようです。

こういう、明らかに可笑しい意見で話題になった時、往々にして人は笑ったり怒ったりします。
しかし、不思議と大多数が自分の見解を述べやしません。
日本人だからでしょうかね、それとも世界的に、言語を獲得した人類にはそういう傾向でもあるのでしょうか。
察するに、皆自分なりの見解をちゃんと持っているんだと思います。
勿論、「明らかに可笑しい」と思った意見とは異なる内容の見解を。
ですが怖いんですよ、自分の見解も笑われたりするものかも分からないんですから。
ですから、他人の見解に対して意見はしようとも、自分の意見は口を噤んで中々喋りやしません。
こんな場合僕は「可笑しな意見だ」と笑われようと、自分の思考を自分なりの表現方法で語った人間の方がずっと格好良いなと思います。

因みに、芸術って何だって聞かれたら「感性を磨き、人生を豊かにするもの」とでも言えば賛同得られるのでしょうか。
僕は、変な話、洗脳で良いんじゃないかと思うんですよね。
洗脳されて凝り固まった頭を、別の作品が別の洗脳方法で、そのしこりを砕きにくる。
こういう連鎖の中で人は育っていくもんだと思うんです。

だって僕自身がそうですから。
子供の頃、沢山のヒーローものやハリウッド映画に触れて、悪を懲らしめ自由を勝ち取る事は正しい事だと思っていました。
そこに絶対的な正しさはないわけですが、まぁ洗脳されていたわけです。
するとその洗脳に「待った」をかける人が現れ、正義の反対を正義として説き、前述の洗脳は破壊されるわけです。
ですから、最初は洗脳で良いんだと思います。
沢山の矛盾だらけの洗脳合戦に散々に溺れて、パンクしそうな思考を自分なりに整理し始めて、人は徐々に豊かになるのです。

学問や人生の最大の目標は「自らの思想を持つこと」だというのをどこぞやで聞きましたが、思考の整理は思想を連れてきますから
洗脳合戦でも、一辺倒にならなければ問題もないのだろうと思います。
思想、なんて出すとあんまり皆嬉しく無さそうな顔してる印象ですが、別に深く考えるほどの事でもないと思うんです。
思想なんてものは煎ずれば、組織化された思考体系でしかないだろうと思います。
些細な趣味の選択から始まり、善悪観念をも引き起こし、大きくは戦争までも決断させてしまうのでしょう。
要は「複数の中で一つを選択出来、その選択理由を明確に説明出来る」事が確立された思考体系であり
それが万象に及んだ時、それを思想と呼ぶんだろうと思ってます。

そういう思想というものは勉学の中で培えるものですが同時に、勉学と少し違う経路で、芸術からも培えるものでしょう。
では何故それが最大の目標足りうるか、というのは、得てみればきっと分かるもんだろうと思います。
というのも僕自身、とてもフワフワしたそれしかまだないので、確信持って理由を述べられませんから。
ですから確立した自らの思想を獲得するのを一つの楽しみとして、この先も洗脳合戦と勉学と、たくさん触れられたらと思うばかりです。




タイムリー
2013.02.06
何ともまぁタイムリーな事に、先日4日に大阪の区役所が「無報酬でデザインをしてくれる人を募集」していました。
無報酬の代わりに「区役所等のHPに名前を載せてあげるから」という、ちょっと信じ難い内容でした。
おまけに一年間だらだらと拘束するというのですから、理解に苦しみます。
察するに、これで知名度を上げて次の活動につなげて貰えれば、と思ったのでしょう。
でも、それって可笑しいですよね。

何が可笑しいか、ちょっと判り難いところではありますが…
区役所のメリットは、無報酬でデザイン能力のある人間に協力を願えるわけです。
本来なら、お金と時間を割いてやり繰りするところをです。
区役所側のこのメリットは既に高い確率で保証されているうえ、多少の瑕疵は注文を付けてリテイクを頼めばリスクは更に下がります。
ところがデザイナー側のメリット、認知度が上がるかどうかは「作ったものの出来」に大きく依存するはずですよね。
例え人目についても興味を持ってもらえなければ、デザイナーの名前を一々覚えたりしませんから。
すると、デザイナー側はとてもハイリスクです。
時間と体力と、自分の技量を割いてまで取り組んで「結果は何も無かった」ではむしろマイナスです。
おまけに、結果が何も無かった責任は「デザイナー自身の技量不足」になるでしょう。

ならば
「一人で絵を描いてウェブにアップロードして知名度を上げるよりは確実だろうし、経歴にもなるから良いじゃないか」
とも思えるかもしれません。
でも、それも可笑しいです。
「一人で絵を描いてウェブにアップロード」するのは、自己完結した自己責任です。
糞みたいな絵を描いても、誰の迷惑になるわけでもありません。
名画のような素晴らしい絵を描けば、自分がそのメリットを最大限に得るでしょう。
誰かが「その素晴らしい絵が欲しい」と言うならば、自分の思うように交渉も出来ます。
たとえその交渉結果が損になろうとも、それも自己責任です。

ですが区役所との場合は、少なからずデザイナーに社会的な責任があります。
最悪のデザインをすれば誰かしらに迷惑がかかり、例え表向き別の人が責任を取ろうとも、デザイナーが責任を感じないとは思えません。
最高のデザインをすれば、デザイナーにも一時の大きなメリットは生じるでしょうが
区役所は「本来なら大金を払わなければ得られないものをタダで手に入れる」わけですから
とんだ業界破壊です、そんな事してたらデザイナーという職業自体がいずれ死滅しますよ。
ですからやっぱりデザイナーにはマイナス要素ばかりの代物です。
強いて確かなメリットをあげるなら「経験になる、経歴になる、コネクションが出来る」といった辺りでしょうか。

結局この話は明らかに区役所が可笑しいわけです。
ですが、この募集案件を考えた人が取分け可笑しいわけではないだろうと思います。
僕はこういう人の認識こそ、一般的な創作等の行為に対するそれなんじゃないかと考えています。
しかし、希望的な意見ではありますが、この案件を考えた人にせっせと上記のような事を説明すれば問題が伝わると信じています。
ツイッター上では上記の案件は大きく共有され問題と認識されていましたが
どちらかと言えばデザイナーに理解のある人らの多い場所だからこその反応だったろうと思います。
…いや、もしかしたら僕の認識違いで、ツイッターの反応が今の一般認識なのでしょうか。
だったらひたすらに嬉しい変化です、そうであると期待します。


長々と引っ張っちゃいましたが、もう一回だけ。
「地位と名誉を欲しての行為」について。

これ、本当は詭弁な事も頭ではよく分かっているんです。
「創作行為は高尚なものだからお金なんか要らないでしょう」という発想を困ると表現しておきながら
創作行為は下卑た動機でするべきではない、と僕は何回も言い放っているのです。
大した矛盾です。
あまり声高に言えたもんじゃあありませんが結局のところ、欲求に対して主観的に"程度"を決め付けて
程度の低いものに対して、確証もない論を並び立てて批難しているに過ぎないのです。
漫画・鋼の錬金術師のキャラ、強欲のグリードの台詞「人間は欲求に善悪を付けるからややこしい」というのは至言だろうと思いました。

ですが、欲求に程度を決め付けて判断しているのは、何も僕だけではないと思います。
だってそれって、すごく人間らしいじゃないですか。
自分の主観的に決め込んだ哲学、思想にすがり付いて、それを批難したり脅かす存在を忌み嫌う。
シンプルですが、そういう姿に何よりもその人の本性を感じます。
とはいえ、どんなに足掻いて自分の欲求の程度の正しさを説こうとも
所詮はこの社会、この時代、この人間であるからこそ通る道理であり、不変的に糾弾出来る欲求なんて無いんでしょう。
ですが僕らはこの時代のこの社会で人間として生きているのですから
そこのルールは最低限守りつつ、そのうえに自分の納得いくルールを作って貫いてこそ
胸張って生きていけるってもんじゃないでしょうか。
問題はそれを「他人に勝手に適応しない事」ですね。
どうやら僕は毎回毎回、そこに引っ掛かっているようです。


と、三日も連続で長たらしい日記を更新しました。
だってだって、動画コンテがしっくりこないんだもの…参ります。
動画コンテって実質の作業量の割りに、滅茶苦茶時間と体力を吸われるんです。
だからこうして現実逃避を…している場合じゃないっ。



再考
2013.02.05
昨日書いた、下の記事を読んでくれた彼女さんが一言「何が言いたいかよく分からない」と言いました。
最もだろうと思いました。
というのも、書きながら何とも巧く言葉にまとまらず、4度も加筆修正をした結果が下の日記でした。
最終的に筆を置いた時の下記の状態は「とりあえず妙な誤解は招きそうにない…かな、多分。」というものでしたから
下の文章で何を伝えようとしているか、不明瞭だと思うのも致し方ないものでした。

それで、彼女さんに口であーでもないこーでもないと説明をしていると、少し見えた気がしたので、再度追記的に。


下記の文章で何よりも言いたかったのは、再三再四伝えてきた意見ではありますが
「安かろう悪かろう」「悪貨は良貨を駆逐する」
という思考の下「創作行為にお金を絡めまいとする風潮はどこかで止めたほうが良い」と伝えたかったのです。

すると、「趣味でやってる人も多いんだから良いじゃないか」という疑問を抱かれました。
しかし下記で書いた、発生した創作コミュニティは趣味とプロの線引きを限りなく曖昧にしてしまい
趣味が混ぜこぜになっているからこそ「お金」という話題はどんどん扱いにくいものへと変わっているように思えます。
僕自身、学生時に何回か「ちゃんとお金取れるレベルだよ」と言われましたが
「僕なんかが、こんなレベルの作品で、良いのか」という疑念が強くありました。
ですが、頼まれてアニメーションを作ろうと思えば
その人の依頼の為に、自分の空いた時間の中から数十数百時間を費やすのです。
共同で立ち上げた企画ならまだしも、いきなり頼まれて見ず知らずの人の為にこれだけの時間を費やすのですから
ここは「お金」を発生させたほうが双方の為だと気付くのに、意外と時間かかりました。

こういう認識はもしかしたら僕だけなのかもしれませんが
もし同じように「自分のレベルではお金はもらえない」と考える人が多いなら、それは困った認識が広範に共有されている事になります。
ボランティアという概念は賞賛されがちですが、僕は程度を弁えなければ皆不幸になる発想だと思います。

例え話。
貴方がマラソン好きで、皆がそれを知っていたとしましょう。
するとある日知らない人から
「この手紙を200km離れた家まで、届けてくれないか。大事な手紙なんだが誰も届けてくれなくてとても困っているんだ」
と頼まれたとします。
付け加えて
「マラソン好きなんだから、見返りは謝意だけで十分でしょう」
と。
貴方は人が良かったので、内心嫌々でも引き受けたとしましょう。
自分が走って手紙を届ける事に、価値の程を見出せなくて。
でも、途中で散々な目にあい、苦渋のうえ手紙を破棄してしまったら。
誰が誰に文句を言いましょうか、誰を責め立てましょうか。
頼んだ人でしょうか、引き受けてしまった貴方でしょうか。
口論は際限なく続くだろうと思います。
或いは、散々な目にあいながらも必死に届けて、満身創痍の帰宅後。
貴方は「ありがとう、助かった」の一言で納得いくでしょうか。
もし頼んだ人が頼む際に、貴方の満足いく見返りを約束していたなら、それは「責任」になった筈です。
負った責任があれば、貴方は手紙を破棄せず歯を食いしばり約束を果たせた事でしょう。
或いは、果たせなかった場合は貴方が出来うる限りの方法で、責任を取るでしょう。
頼んだ人も、大事な手紙を損なわずに届けられたのなら、十分でしょう。
また、ここでは表に出てこないもう一人の不幸な人がいます。
手紙を届ける事を生業にしている人です。
その人は手紙を届ける事に対価を求め、その代わり責任を持って届けていようとも
貴方がその頼みごとを引き受けてしまった事で、この人は仕事を一つ失うのです。
似たような事態が続けば、手紙を届ける仕事は廃業せざるを得ません。
すると、今度は大事な手紙を誰が届けましょう。
きっと多くの人が、困り始める事でしょう。

…極論ですかね、でも僕は結構真剣に懸念しています。
勿論、需要と供給の問題等、もっと全体像を考慮して意見しなければいけない事だろうとは思います。
ですが、人は悪貨に浸ればそれに慣れ、良貨の価値を理解できなくなる生き物です。
料理なんか露骨ですよね。
そんな事を目の当たりにしていると
「いずれ良質な作品に触れる事さえ叶わなくなるかも知れない」と思わざるを得ず
途端とても怖くて仕方ないのです。

ですから僕は、上記のような認識を「困った」と思っています。
そしてその類の認識を植えつけかねないような表現を
不特定多数に対して流布するのは是非とも止めてほしい、と言いたかったのです。


もう一点、無意識に近いレベルで主張していた事が下記の日記には混じっていました。

僕は肩書きに飢える人間が大変嫌いです。

小学生の頃に、「マトリックス」に魅せられて映画監督に憧れました。
凄い作品を作れる、凄い人らに憧れました。
しかし、昨今も目に余りましたが
「肩書き:映画監督」が目当てか、或いはそれに向けられる敬意を欲してか、全くのド素人がそれらをやり始めました。
もしかしたら、そういう人らはずっと僕と同じように映画に焦がれ、映画監督を望んでいたのかもしれません。
ですがどうしても、僕にはそういう人らに不純な動機を強く感じていました。

すると、何だか映画監督って凄く恥ずかしいような気さえしてきたのをよく覚えています。
地位や名誉を欲した人が半分ぐらい混じってる、そんな職業にさえ見えました。
多分この感覚を覚えたのは15歳ぐらいの時です。
それまでは、僕には地位や名誉といった社会的な欲求が強くありました。
この世に生まれたからには、何かでかい事を成して立派になって死にたいと本気で思っていました。
ですが僕のそれには、全く中身なんてありませんでした。
それに気付いたのが15歳ぐらいの事、とても自分を愚かしく思いました。
すると、この人もそういう欲求に溺れているんじゃないかと思える人らを、とても受け付け難くなりました。

もう10年近く前の話です。
色んな人を見てきて、そういう欲求にも沢山の側面がある事を理解したつもりでいました。
ですから何となく、もうそんな感覚は失せているんじゃないかと思っていましたが、どうやら根深く残っているようです。
恐らくそれに起因した、そういう欲求をもっている同業者に対しての嫌悪感を隠せておらず
しかし自覚して書いてもいないもんですから、もの凄くフワフワとした文章になったのでしょう。


…こんな事書くと、お前は社会的欲求皆無なのか、と突っ込まれそうですが
僕は駄目な奴ですから散々言っておきながら、勿論ありますよ。
ただ同時に、コミュニケーションを面倒臭いと思うもっと駄目な面がありまして
それがお陰で社会的欲求が著しく低くなっているように思います。
でも、人間ってそんなもんですよね。
無数の欲求が入り混じり、沢山の矛盾を持ちながら都合の良い発言を繰り返しているものだろうと思います。
…思いたいです、僕だけじゃないですよね…。


あと一点。
地位や名誉を求めて活動する人が
「創作活動でお金をたんまり稼ごうなんて欲にまみれた汚い奴!」
なんて言うのか、と疑問を抱かれました。
そりゃあ、皆が皆そう言うとは思いませんが、言い易い条件下にいるだろうという話です。

再び例え話。
「女の子にモテたい!」と思ってギターを始めた少年。
狙い通りにいって、ちょっと人気が出始めた時。
インタビューなり何なりで
「女性の地位向上についてどう思いますか?」と聞かれて
「最悪だね」と答える人は少ないでしょう。
本音はともかく、大多数が地位向上を支持していますから。
同様の理由で、「戦争についてどう思いますか?」と聞かれて
「どんどんやれよ」と答える人は少ないでしょう。

ちょっと極論ではありますが、こんな感じで浅く広く人に好かれようと思えば
大多数の意見に合わせる、大衆迎合型の姿勢でいる事はとても大事だと思います。
そして創作コミュニティにおいて、今現在「お金」という話題は好かれません。
勿論、僕のような変な意識を持っている人間もいるでしょうが、残念ながらマイノリティじゃないかなぁと感じます。
すると、大多数の意見「創作行為でお金の話題は汚らわしい」に合わせるのが、定石じゃないでしょうか。
そんな事を考えての件でした。


…話、少しは明瞭になっていると良いのだけど。



地位と名誉とお金
2013.02.04
先日、動画サイトで見かけたミュージックビデオ内の表現にて
「欲=¥」
というものを観ました。


インターネットと高性能PCの普及で、多くの人が創作に気軽に取り組める時代になりました。
僕もその恩恵を受けたうちの一人です。
またそれがお陰でコミュニティーが発生し、今や創作活動は手軽に深く楽しめる趣味にもなりました。
万人が何らかの形でそれらを楽しめる、これは好意的な変化だろうと思います。

しかし一方で、気軽に参加出来る条件が整うほどに、不純な人らが現れ始めるのも事実です。
よくある話『ギターを始めてバンドを組んだ動機は、8割とかそれぐらいの高確率で「異性にモテたい」という』アレです。
創作行為においても、「著名になりたい」「もてはやされたい」という欲求を
隠そうとして隠し切れていないような人が劇的に増えたように思います。
社会的"欲"求です。

別に動機が不純だとかは、正直どうでも良いんですよ。
何故創作活動してるのかと問われて「モテたい!」とスパッと言えるなら、むしろ清々しいじゃないですか。
でも、そういう社会的に認知されてもてはやされたい人間の大半は、そんな事言わないんです。
だってそういう欲求を明言するのは、その欲求に対して往々にして相反しますから。
自分の欲求を満たす為、それっぽい適当な動機で嘘をつくのです。
僕はそれはまず、如何だろうと思います。
そりゃあ、嘘ついてますから。

でもそれは、個人の好き勝手な嘘ですし勝手にしてくれって思います。
ですがしかし、そういう欲求は基本的には、大衆迎合の姿勢でいる必要があります。
皆に好かれたくて仕方ないのですから、そりゃあそうでしょう。
すると、少し可笑しな事が起きはじめます。

「芸術等の価値ある創作物に対価を支払う」という行為は割と難しいものなのだろうと思います。
僕だって、著名な画家の絵に200万払えといわれれば、確実に躊躇います。
まして、TVの普及により質の高い映画も、高度な演技も何もかも、まるで川の水の如く勝手に流れてくる世の中です。
一般の人らの「創作物に対し相応の対価を支払うべきだ」という認識はどんどん薄れているでしょう。
無論僕も、こういう事始める前はそういうもんだと思っていました。

話戻りまして、そういう人々に支えられて生じたのが、昨今の創作行為のコミュニティーだろうと思います。
ですから、社会的欲求に飢えて創作活動を始めた人らは
自らの動機は恥ずかしがって嘘をつき、皆に好かれる為にポピュリズムに落ちて
「創作活動でお金をたんまり稼ごうなんて欲にまみれた汚い奴!」なんて言うのではないでしょうか。
でもそういう行為は下手したら、そういう僕からしたら困るような認識を更に広げかねないのです。
大した迷惑です。

ただ、冒頭に書いた僕が見かけたミュージックビデオは、いわゆるステマや誇大広告等々を利用して
不当にお金を稼ぎ出そうとする人に対して「金の亡者だ」と非難する表現だったろうとは思います。
僕もそれらは全然好きじゃありませんしそういう行為は大いに批判しますが
少なくとも、お金を稼ぎ出そうとする事自体は何一つ非難するとこもないと思います。
ですから、全部ごっちゃにして「欲=¥」みたいな表現を平然とされると、どうにも引っかかってしまいます。
実際に、「創作行為は高尚なものだから、お金なんて1円も要らないでしょう?」と言わんばかりの人に結構会いました。
とはいえ例えば僕に対して「お金を払うほどの価値がない」と言い放つならそれでも良いのですが。


不特定多数の人の動機を散々に扱き下ろしましたが、じゃあ僕はどうなんだと言われると
僕だって名前が売れて欲しいし、更には僕はお金も欲しいです。
でもとてもじゃないですが、僕はそれが動機でアニメーションみたいな糞面倒臭いものをやろうとは思えません。
僕がアニメーションを作り始めた動機は、アニメーションにどうしようもないほど感動したからであり
作り続ける動機は、その感動に到底及べない作品しか作れない現状がひたすらに悔しいからです。
悔しいから、ちょっと巧く出来た気がするだけで凄く嬉しいのです。

でも、何らかのお仕事片手間に趣味として取り組んでも、きっとその感動を超える事はなく、僕はいつまでも不満です。
それは大学時代に嫌というほど感じました。
しかし、ひたすら好き勝手にアニメーションを作っていても生活出来ません。
お金がないとご飯が中々食べられない世の中ですから。

そんな訳で、いつまでも没頭して作り続けるために、作ったものに対価が欲しいと思います。
そうすれば、作り続けていながらもご飯も食べられますから。
そして対価を支払ってくれるような人に気付いてもらえる為にも、名前が売れて欲しいと思います。
どっちも、自身の感動体験を超える作品を作りたい、その目的の為の手段として、強く欲しています。

兎に角「好きにアニメーションを作らせてくれ」とひたすらに思っています。
格好よく「人を楽しませたい」とでも言えれば良いんですが、僕はそんなに出来た人間じゃあありません。

勿論、作品を見てくれる人がいて、それを楽しんでもらえる事は至上の幸せです。
ですがそれは、情けないですが僕の目的にはなり得ていません。
それを目的と出来る人はまさに聖人君子のようで、全く感服するところです。
僕にとって「見た人に楽しんでもらえる事」は
何かしら作った結果として得られる曇りのない最高の喜びであり、最高の救いだと思っています。
前述したとおり、僕は作ったものに満足なんか全然出来やしません。
ですが、それでも死にそうなほど心身を振り絞って作るのですから
結果的にそれが誰かにとって少しでも有意義なものになれば、磨り減った心身に対する最高の救済になるのは言うまでもないと思います。
だから、目的とはちょっと違うんです。


少し話それましたが結局、創作活動の動機なんていうものは何でも良いです。
「モテたい」でも「見返したい」でも「チヤホヤされたい」でも「誰かを喜ばせたい」でも良いんです。
結果的に優れた作品を世に送り出し、誰かにとって有意義なものになったなら、動機なんて本当にどうでもいいです。
ですがそういう動機に邪魔をされて困った思想を表現し、世の中にそういう認識を植えつける努力は流石に遠慮願いたいです。
そういう事を一般化してしまうと、最終的に困らない人なんてほとんどいないはずですから。

…兎に角、お金は大事です。



アニメーションと、変な夢
2013.01.30
少しばかりの準備を経て、先日新たにアニメーションをコソコソと作り始めました。
色々と準備が多く、昨日ようやく作画を少ししたところなのですが…やはり作画は本当に楽しいです。
もうアニメーションを作り始めて彼是4年近くなりますが
「自分の描いた絵が活き活きと動き出す瞬間」に訪れる感動は、今だ何一つ色褪せません。
何でこんなにも嬉しくなってしまうのか、自分でもよく分からんのです。

でも不思議なもので、この嬉しさっていうのは線で描くアニメーションならではのような気がしています。
3Dのキャラモデルを動かして簡単な3DCGアニメーションを作った事もありますが
「動かしていて楽しい!」という喜びはほとんど無かったように思います。
どちらかというと、カメラを3D空間で自在に動かせる事の方がずっと楽しかった事を覚えています。
Flashやパペットで作る時は、少し作っては走らせて…を繰り返すので、何だかプログラミングの楽しさに近い気がしています。
コマ撮りはした事がありませんが、多分に作画するアニメーションとはまた違った楽しさがあるのではないでしょうか。
そんな事を思うと、やっぱりアニメーションを作る楽しさってちょっと特殊だと思うのです。
…アニメーションを作る楽しさって何なんでしょう。
不思議です。


話変わりまして、最近変な夢を三日連続で見ています。
一つ目は、昨年の厄年の一番の災厄事に関連してでした。
妙にドラマチックに、物事がトントン拍子で片付くのですが、目が覚めてみればそんな筈もありません。
二つ目は、一気に現実感失せて、宮崎駿監督と働いている夢でした。
夢の中で監督に「お前は細かい事で一々うるさいっ!」と怒られていました。
万が一にも無さそうですが、一緒に働いたら実際にそう怒られそうな気がします。
三つ目は、もはや意味不明です。
地元大分にいた頃、通学路に急斜面の長い下り坂がありました。
その坂を僕は、猛スピードで、草スキーの要領で、枕の上に乗っかって滑り降りていました。
スピード感を演出する為か、枕の羽毛が格好良く飛び散り軌道を追っていました。
そして滑り降りて即座に「あ!ゲオで借りてたDVD持ってくるの忘れた!」と頭を抱えて目が覚めました。
延滞料取られました、これは現実でした。

今日は変な夢じゃないと良いのですが。



まどか☆マギカと、なんか凄い
2013.01.21
ちょっと毒々しい気分なので、いつもより露骨に毒を入れてます。

もう一月以上前の話だと思いますが、話題になっていた「魔法少女まどか☆マギカ」を観ました。
…ネタバレ満載の日記になりますゆえ、自己責任でお願いします。

それでは。

単刀直入に、誤解なきようハッキリと述べますが、まどか☆マギカは大変楽しく観る事が出来ました。
映像的にもTVアニメらしからぬ領域に踏み込んで作っており、楽曲も素晴らしく、よく練られた物語で、展開も早く飽きずに見入りました。
しかしキャラクターは露骨なまでに記号的で
昨今のアニメはこちらが標準なのかも知れませんが、その点は僕にはあまり馴染めませんでした。
更には、僕にとってクライマックスは明らかに杏子が死ぬところで、以降は少しずつだれていった印象でした。
そしてラストに入り、まどかが願い事を決めて魔法少女になる、このシーンでどうにもしっくりいかなくなりました。
一つは、まどかが過去の改変を良しとしてしまった事でしたが、それとは別にもしっくり来ない何かがありました。
観終えた当初、この感覚は何だか自分でも判然としませんでした。
大きな感動に包まれた時、自分が何を理解してここまで感極まっているのか良く分からない事がこれまでにも映画等々でよくありました。
ですから一瞬「それなのかな」とも考えましたが、明らかに僕は感動はしていなかったので、しばらくうーんと考えました。

少し考えて気付いたのは、まどかの最後の選択(願い)は明らかに消極的選択であった事です。
もっと良い願いがあったんじゃないか、恐らくそこに突っかかったのです。
それで更にうーんと考えてみると、今度は明らかに不自然な点にぶつかります。
最終話手前の、キュウベェとまどかの会話です。
あの会話は、まどかが最後の願いを決める為の会話であり、視聴者に仕掛けた誘導尋問みたいなものです。
もっと別の願いがあったんじゃないか、と考えた際にすぐに思い付く案は、あそこの会話で徹底して潰しているのです。
その案だと、さらに悪いケースになるよ、と。

ここまで思って、キャラクターの露骨過ぎる記号性と相まって
あぁこれではまるで、ストーリーありきで、そのストーリーを語る為に都合の良いキャラクターを配置しているようだ、と感じました。
その事を、一緒に観た彼女さんに話していると
彼女はWikipediaを確認していたようで「脚本から作り始めたようだから、そうかも」と教えてくれて、自分の中で妙に納得しました。
僕も一応、曲がりなりにも物を作る人間ですがそれでもド素人です。
そんなド素人に、キャラクターがアイコンでしかないとバレるってどうなんだろうと心底思いました。
そういう事まで考えると、まどか☆マギカが別格のように扱われるのも何だか腑に落ちませんでした。

勿論、世の中には「キャラクターはアイコンとしてみるほうが面白い」という人が沢山いる事も知っています。
エヴァの庵野監督も確かそんな人だったと思います。
でも、前述した大きな感動を、僕はそういう作品から覚えた事は一度たりともありません。
面白いのは面白いんですよ。
でも、あくまでパズルを解くかのような推理ゲーム的な面白さの域であり、決して感情を揺さぶる事がないのです。
面白い!と感心することはあろうとも。

でも「ストーリーのある作品って脚本から入るんじゃないのか」と言われれば、その通りです。
しかし作り方が違うのです。
こういう終り方をしたい、こういう展開をしたい、こういうシーンを入れたい…
という大まかな流れは如何なる作品でも考えるものと思います。
問題はそこからです。

「この終わり方の為に、この役がここでこうしなければいけない」
こういうのを突き詰めていくと、物語においてキャラクターはどんどん記号化していきます。
すると「このキャラってこういう事は言いそうにない」という台詞をどんどん口にするようになります。
或いは、キャラクターに全く人間味がなくなります。
それで物語を組み立てると、パズルのような物語が出来上がり、あくまで推理ゲーム的な面白さの範疇に収まるのだと思います。
僕が個人的に大好きな今敏監督も、そういう人だったろうと思います。
よく組み立てられてて滅茶苦茶面白い、だけど感動はしない、という映画です。

もう一方は、キャラクターの人格や作者のその場の思いつきで話が平気で変化していく作り方です。
誰だったか忘れましたが、野球漫画を描いている人の言葉が印象的でした。
試合の大まかな流れは決めているけど、空振りする予定だったキャラクターのコマを描いた時に
そのスイングのフォームがあまりに気持ち良かったらホームランに変更する、試合の行く末は自分でも分からなくなる…
という類の事を言っていました。
要は、作者が絶対神ではなく、キャラクターの人格や葛藤、その時の調子で、作者の意図に反して平気で物語が転がっていくのです。
すると見ている人も当然、物語の行く末にドキドキせざるを得ません。
おまけにやたら人間味に溢れてるもんですから、驚くほどキャラクターに感情移入していくでしょう。
ですから最後に、捉え難いほど感情を揺さぶられるのです。
勿論、とんでもないお話にも成りかねない高いリスクを背負った作り方です。
つまらない映画は大抵そういう事です。
こういう作りをしている代表は間違いなく宮崎駿監督でしょう。

僕は断然、後者の方が好きなのです。

話飛びまして、先日ツイッターで「なんか凄いってヤバイんじゃないか」というのを見かけました。
やばい、というのは良くない意味で使っているようでした。
でも僕はそれに強く論駁を加えたい。
「なんか凄い」というのは往々にして圧倒であり、作り手と受け手の認識量の差にあるのだろうと思っています。
作り手が作り出した情報量が圧倒的であり、受け手がそれを受け止めきれずに溢れかえってしまった時に
「すごい」という感想しか出てこないんじゃないかと思います。
そして僕にとって「なんか凄い」はいつも、強烈な感動と共にありました。
例えが映画ばかりで申し訳無いですが、これまでに何本か、そういう映画に出会いました。
それらは強烈な感動を与えておきながら、その感覚が一体何なのかさっぱり分からず、理解するのに数年要したものばかりです。
そしてほとんどの場合が、上記の「物語の作り方」の後者の方でした。

結局僕にとって、パズルのように組み立てられたお話は感心はするも一時の話になってしまいます。
観終わればタネが分かった手品も同じで、よく考えたなぁと思ってお終いなんです。
今回のまどか☆マギカは特にそれでした。
ですが、作者も制御しきれなかったお話は、平気で何年も自分の中で燻ぶります。
まるで自分の成長に合わせて、話が少しずつ見えてくるのです。
…どうやら、僕はそういうのが好きで堪らないようです。
おかげで散々にまどか☆マギカを物足りないみたいな言い方しましたが
それでもとても楽しめたのは間違いないので、そこだけは弁明させて下さい。

そんな訳で、まどか☆マギカ、お勧めです。
…説得力ないな!



責任
2013.01.21
先日、仕事のやり取りで大きな過失をしました。
スケジュール管理と確認を怠った結果が祟り、請け負っていた話を反故にしてしまいました。
要は、大変無責任な事をしていたのです。
自分が過失に気付き急遽確認の連絡を取るまで一切問題を認識していなかった現実は
自分のスケジュールをまともに把握していなかった事実を明らかにしてくれました。

当面はフリーで仕事をやり繰りしようとしていこうとしているのに、この有り様はないだろうと随分と自分にガッカリしました。
小学校の頃、通知表に「責任感が大変強い」と書かれた事を長い間誇りに思っていましたが
それはとても局地的な事、即ち自分が物事の現場にいる時に限り、妙に責任感を覚えていたに過ぎず
予定などの先々の話になると、思い返せば雑な事ばかりしていたように思います。
おまけに、今回の失態を起こすまでその事に対して大した自覚意識が無かったのは明確です。
何故なら、こういう仕事をしていく上で最重要なのは間違いないのに
スケジュールの管理の類の抱負を、一瞬たりとも考えた事がなかったからです。
要は「最低限は出来ている」と思い込んでいたのです。
…情けない。

とは言え、今年の抱負は今年の抱負で決めたものですから、今更変えたりしようとは思いません。
ただ、今回の失態を肝に銘じて、目標とするまでも無くちゃんと管理していかねばと思います。
…「失意泰然得意淡然」だ、しっかりしよう。



GIFアニメと故郷
2013.01.10
アニメのページに、GIFアニメを一枚追加しました。
長らく理想としていたタッチを追求する為の習作です。
完璧とは程遠いものの、実現可能性を確かに感じる事は出来たので、一人喜んでいます。

あのGIFアニメ、制作するのにほぼ丸3日要しました。
仕事のやり取りや家事・一般的な生活をする時間も含んだうえで
7日月曜の15時~10日木曜の10時の間に、0から始めて、制作を完了することが出来たのです。
早いと感じるか遅いと感じるかは人それぞれでしょうけども
僕の実感としては、自画自賛になりますが随分とマシになったという印象です。
3日の中で、このタッチを再現する為に試行錯誤していた時間がかなりある為
システマチックに作業をこなせるようになれば2日で十分いけたんじゃないか、という感覚です。

ところで「バケツの中のかか」はおよそ100日で5分、300秒のアニメーションを制作したわけですが
本作は2日で6秒、即ち1日3秒、100日あれば「バケツの中のかか」と同じ300秒のアニメーションを作れるわけです。

…3年も経ったのに何も進化してないじゃん、と突っ込まれるととても悔しいですがw
クオリティを向上し、かつ制作時間には変化がない、というのは個人的には結構頑張った事です。
クオリティの変化を実感してもらえなかったなら僕の力不足でしかありませんが…いくつか明確に変化した事を。
①制作する際の解像度が640×424から、1280×720に(作画は2560×1440。GIFアニメの都合、書き出しの際にかなり圧縮しました)
②キャラクターの線が、シンプルなものから少しだけ複雑なものに
③影無しだったキャラクターに影が
…というのが、確かな変化です。
勿論、背景や人物に対する描写力の向上はあって欲しいところですが、客観性を欠く部分だと思います。

…と、企業ならば明確に進化した部分だけを明示すると思いますが
今回のGIFアニメでは横走りのシーンで8枚の作画を3回ループしています。
「バケツの中のかか」ではあり得なかった事です、そもそも繰り返し使う方法なんて邪法ぐらいにしか考えていませんでした。
その点、まだまだ「バケツの中のかか」にも分がありますから、どうにかそこも逆転していきたいところです。

以上、GIFアニメについての雑感でした。
今年はこういう清々しいアニメーションを沢山作れたらなぁと夢想しています。


冬に地元に帰省していて、二つ、ハッとする事がありました。

一つは、故郷の景色の認識です。

大学時は東京、現在は京都で生活をし、故郷の大分を離れて6年になりました。
これだけの期間故郷を離れ、かつ東京と京都と大分と、全く別の景観の街の中で住み、ようやく気付けた事があります。
僕にとって、家が小高い丘の上にあり、家の周りはほとんど坂で
自分の部屋の窓から隣に山が、遠くに海が、その更に向こうに対岸の町が見えるのは当たり前でした。
何の変哲もない極々普通の景色だったのです。
ですが東京と京都に住み、それが普通でない事を、そして僕はその景色を堪らなく愛せる事を知りました。

「故郷が懐かしい」という時に、僕が感じていたのはいつも細部の事でした。
あのお店が、あの家が、この道路が、この空気が、という細かい部分に郷土愛を覚えていました。
だからこそ、どんな場所でも「住めば都」というのは理解出来ましたし、同様に愛せるようになるものだと思っていました。
けれど違うのです。
僕が育った、僕が包まれていた景色はあの土地でしか再現しようが無く
それこそが唯一無二の、誰もが心の内に持ちうる故郷なのだと痛感しました。

田舎の景色が良いとか都会の街並みが悪いとかいう話ではありません。
自分が生まれ育った環境が、どう足掻いてもその人の故郷になるのです。
都会に住んでいても
「日の昇る方向に薄っすら山があり、日の沈む場所は高層ビルで見る事が叶わない。」
こういう意識するまでもない個人で完全に把握しようのない壮大かつ当たり前の景観の連続が
その人にとっての故郷を作り出しているのであり、例え今いる街並みがどんなに故郷に似ていようとも
それは決して故郷にはなりえないはずです。

僕は何となく、もう地元は地元でどうでもいいや、と勝手に思い始めていた矢先でしたから
故郷に対する強烈な思いに、とても打ちのめされました。
これを作品に反映しなくて何が表現だ、とか変な事考え出しています。
そして早速、先ほど書いたGIFアニメは、僕なりの故郷の景観の再現だったりします。
多分、この先もちょこちょこそういう風景が出てくると…出していきたいなぁと思っています。
ありがとう大分県。


もう一つは、自分の部屋の匂いです。

実は一年ほど、地元の自分の部屋に入っていませんでした。
今年たまたま入る機会があり、自分の部屋に戻ったのですが、その匂いがあまりに懐かしく感じられましたw
人間は匂いに対する慣れが早く、嗅ぎ慣れたものは認識しにくいもんだと勝手に思っていました。
…腐った食材や湿った衣類で、自分の部屋が異臭を放っていても気付きにくいのはその為だとw
でも、自分の部屋の匂いと確かに認識出来て、なおかつそれで強い安心感を覚える。
そんな事にすごく幸せを覚えました。

多分、二つとも当たり前の事だと思うんです。
多くの人が、もっと早い時期に気付けるものだと思います。
だから皆、故郷を大事にしようとしているのだと思うと、色んな事を感慨深く捉えられそうです。

自分にとって確かな故郷がある事、そしてそこに帰る事が出来るのを本当に幸せだと思います。
そして今自分たちがいる場所が、今そこで育つ子供たちの良い故郷となるように、大人は頑張らないといけないなと思う次第です。



…自分で自分を大人というのは、大変奇妙なもんですね…ちゃんと大人…なのかな。

学歴論争
2013.01.05
プロフィールに加筆修正を行いました。
ご覧頂ければ分かるかと思いますが、最たる変更は学歴の表記です。
…これを見た人が、どう捉えられるのかは僕には分かりかねますが、僕は最後まで学歴の表記に反対していました。

え、お前のサイトなのに何言ってるの?
という問いは最もだと思います。

このサイトが完成した際、親に報告をしました。
趣味のサイトではなくて、僕のスタンスとしては第一に「営業の窓口」だと思っていますから
やはり最も身近な大先輩である親に、一目見て指南をもらうのは妥当だろうと思います。
すると、第一声はシンプルに「早稲田を載せなさい」でした。

誤解を恐れずに言うなら、僕は早稲田大学が大嫌いです。
だって、いっぱい映像の勉強をしたくて、やりたくもなかった受験勉強を必死に耐えて耐えてやってきたんです。
専門学校など許さぬ親から諸手を挙げて歓迎されたうえで、映像の勉強も出来るだろうと踏んでその大学を選んだわけですが
入ってみれば必修科目の拘束は厳しく、おまけにそれらは大半が数学・英語・物理・化学でした。
えぇ、半分ぐらい逆恨みです。
ちゃんと調べなかった僕も悪いんですが、一方で調べても何も出てこなかったのも事実なんです。
というのも、学部再編成をした年に入学したもんですから、大学のカリキュラムもさっぱり明るみに出ていなかったんです。
それもそのはず、入って聞いて驚きましたが「二年生以降のカリキュラムはまだ完成していない」と言うんですから。

…そんな訳で僕は何故か数学科卒です。
大学なんて糞食らえでした。
でも、こんだけ散々言っておきながら、たくさんの恩師に支えられての卒業でしたもんで
「無かった事にしよう」とは到底言えませんし、忘れ難い恩情にもたくさん助けられましたから、何だかんだ言って感謝もしています。

…と言う具合に、僕は大学に対して少し変な感情を抱いており扱いにくいわけですが
親からすれば「これを売り込まんで何を売り込む」というわけです。
そんな平行線になりそうな話題を抱えたまま実家に帰省してみれば、親族口を揃えて「大学載せろ」と言うのです。
凄まじき姉貴様に言わせれば「はっ、大した学歴じゃないんだから載せたって誰も何もいわねーよ」でした。
…そうですよね、姉貴様はいつも東大理三あるいは慶応医学部の人ばかりとつるんでたんですから、こんな大学鼻くそレベルでしょう。

実際問題、僕は大して頭よくありません。
僕をサイト等を通じてよく知っている人なら分かると思いますが、大した事ない人間ですよ。
高卒や専門学校卒でも、僕なんかよりずっと頭の回転早い奴を何人も見ました。
逆に大学の同期で、こいつはちょっと鈍過ぎないかって人も沢山みました。
だから学歴なんて僕はあてにならんと思います。
…そうです、「学歴なんて」と臆す事無くいえる、それぐらいなんですよ。
僕がそこそこの大学を出てよかったと思える事なんて。

だから、僕は学歴なんて載せようとは思いませんでした。
言ってしまえば、僕の仕事とは一切関係のない事でもありますから。
しかし親族一同の猛プッシュを受け、散々あれこれ考えまして、結局載せる事にしました。
載せるに値すると思えたいくつかの要素に気付けて今回の決断に至りましたが
その要素についてはまた、その成果を実感出来た時にでも書けたらと思います。


2013年
2013.01.04
新年明けましておめでとうございます。
今年も一年、尽力していきますゆえ、何卒よろしくお願いします。

さて、年明けと言えば!
地味に恒例化してきた一年の抱負です。
先ずは省みる事からはじめます。

2009年「絵を描く!」
2010年「続ける事」
2011年「邁進」
2012年「迅速と忍耐」

…と言った具合の抱負をこれまで立ててきました。
2012年の抱負の前に、2011年を終えた時、2011年の「邁進」は満足いかなかったと感じ
2012年も「邁進」を借金として継続しようと考えておりました。
ですから先ず、その「邁進」に関して…
「絵を描く!」事は無数に描き続けた落書の絵が、3本も強引に作り続けた自主制作アニメが自分なりの答えだろうと思います。
「続ける事」に関しては、こうして学生の枠を出て尚こういう事を下らぬまでに続けている事実が何よりの答えだろうと思います。
という訳で、借金になってしまった「邁進」は、一定の達成は出来たと自己評価を下したいところです。

過ぎた年2012年の抱負「迅速と忍耐」について、迅速は連絡の事でした。
一端の社会人としてやっていくのに、いかなる連絡も迅速に行う事、これは至極当たり前の事でかつ僕が全く出来ていない事でした。
ですから、学生という保護から外れる機会に徹底的に叩き直そう!と思い立ったがゆえです。
結果の程をいえば、満足と言うには程遠い状況でした。
仕事に関連した連絡報告は、最低限の早さを維持していたと思いますが、自分の事になれば等閑にしていたと思わざるを得ません。
今後はもっともっと、迅速に対応していかねばと思うばかりです。
忍耐について、これは下手したら一文さえも稼げない仕事を選んだんですから
まして1年そこら必死になったところで安泰出来るとも考えていませんでしたから
相応の苦労苦悩に対して、今は耐え忍ぶ他無い、という考えからでした。
これに関しては、今もこうして続けている事が何より、自分なりに乗り切ってきた証拠だと胸張って言えます。
勿論、弱音には何度も出くわしました。
四六時中パソコンとにらめっこし、足を痛めて、指を痛めて
にも関わらず、顔も見えぬ相手に絵を下手だと笑われて、明日はどうやって凌ごうかという日も絶え間なくやってきました。
その際に、脳裏に微塵も「止めたい」と過ぎらなかったかと言えば、当然そんな訳ありません。
何でこんなに中途半端に絵が描けるようになってしまったのかと恨みたくもなりました。
でも、何度も思っては、悩んで悩んでここまで来てしまった自分を信じる他無い事実を再確認し、歯を食いしばるのみです。
それは当然、今年も来年も、この先もずっと付きまとう苦悩でしょう。
ですから、忍耐を今後も「当たり前の姿勢」として続けていければと思います。

そんな2012年、抱負の達成度は半端なものでありました。
ですがこれは借金としてではなく、どちらの抱負もこの先も変わらず「当たり前の姿勢」として継続していかねばと思います。
御察しの通り、2012年の抱負は、永続的な姿勢に取り組む第一歩として立てたものでした。
その点を思えば結果は、決して最低だったとは思いません。
しかし「もっと出来た」という意識が確実にある以上、まだまだ全然だったんだと肝に銘じておかねばと思います。


長くなりましたが、そんなこれまでの数年を踏まえ、2013年の抱負は
不屈自立
に決めました。
…たぶん造語です。

僕には明確にやりたい事があり、常々それを夢想しながら生きています。
それは一般的には夢物語であり、そんな夢からは程々の年齢で目を覚まし、強かに現実的に生きていくのが正しいものだと思います。
何故夢物語か、単純だろうと思います。
それを続けていたって自立するのがとても困難だからに過ぎません。
今の僕は、すねかじりですし金魚の糞です。
そうです、見栄も糞もありませんよ、全く以て自立なんて出来ちゃいません。
しかし自立出来ないのかと問われれば、それは反論します。
例えば仕事でもバイトでもなんでも良い、お金を稼ぐ手段を選んで勤しめば
3ヶ月も要らずに生活を確実な軌道に乗せられると思います。
それぐらいには自分の能力を過信しています。
でも、それをしたんじゃなんのこっちゃです。
歳はだいぶオッサンに近付いていますが、それでもまだ若いほうだろうと思います。
ですから、確実なお金稼ぎに身を投じるにはまだ早い。
まだ折れるには早過ぎるのです。
そこで、ここに不屈さを求めるのです。
でも、年も年、いつまでも金魚の糞をしているわけにはいきません。
すると、今度は自立が求められます。
自立といっても多岐に渡ります。
経済的な自立は勿論ですし、自営業なんですから経営面の自立も、少々慄いてはいますが必須でしょう。
一方でもっと足元の、食生活の自立だって大事です。
さすがに家庭菜園で食の全てを自らまかなえるとは思いませんが、料理ぐらいは毎日ちゃんとしたい。
今の自炊加減は、よく見積もって50%ぐらいだろうと思います。
これを90%ぐらいにはしたい。
…詰まるところ、食から仕事に至るまで、誰の目から見ても「こいつは大丈夫だ」と言われるような自立をしたいと思う次第です。

そんな訳で、これまで続けてきた下らぬまでの信念をこれっぽっちも折り曲げる事の無い「不屈さ」で
あらゆる自分の生活を自ら立てる「自立」をしたい、と思い「不屈自立」としました。

毎度の事ながら容易じゃあ無い筈です。
でも、だからこそ必死になれるもんだと思って頑張ります。

それに、何せ今年はもう後厄。
去年の厄年っぷりには参りましたが、今年はこれまでの無駄に運の良い野郎の復活のはずです。
油断大敵を忘れずに、運を味方に精一杯やっていこうと思います。

今年も奇妙珍妙の道中、どうか面白おかしく見守って頂ければと思います。
今年が多くの人にとって飛躍の一年となりますよう期待するばかりです。


新生・彷徨日記
2012.12.28
昨日、サイトを新設しました。
それに伴いまして、彷徨日記の方も一新です。
相も変わらず毒入りの日記になると思いますが、気が向いた時にでも読んでみて下さい。
きっと、アナタの気分を害します。よろしくお願いします。

それはそうと、新設したサイトについてです。
…兎に角、サイトを作るのは大変でした。
このサイトを作るに当たって、幾つか意識した事がありました。
まずいちに、Flashを完全放棄する。
次に、使い勝手を最大限意識する。
そして最後に、最近大流行のApple風なお洒落サイトに落ち着かない。
…でした。

一つ目のFlashに関して、これはもう散々「Flashはもうすぐ終る」と言われ続けてるのを見て
今更これを真剣に勉強して使うのもなぁと思っていたところ。
「ブラウザ上のFlashを非表示にするフリーソフトが割と人気」という事実を知り、止めようと決めました。
でも動きのないサイトはツマラナイ、かといってJavascriptを駆使するのはまだ出来そうもない。
ならばGIFしかないじゃないか!という事で、サイト内で動いているのは全部gif画像で作りました。
これなら、最悪「動いていない画像」が表示されるだけで、非表示になることもない筈です。
また二つ目の使い勝手に被る話ですが、意外とgif画像って軽くも出来るんです。
だからそういうのも考慮して、gif画像を程ほどに乱用する方向で作りました。

二つ目は使い勝手です。
とにかく、クリックする回数を減らしたい。
僕の作った動画を再生するまでに5回もクリックしないと見れないなんて事にならないよう、最大限気を遣ったつもりです。
だから、トップページから僕の動画を再生するまでに2回クリックするだけです。
そしてちょっと奇抜なサイトのデザインにしました。
コンテンツ毎のメニューが真ん中にあり、下にメインコンテンツ、右と左にサブコンテンツを置きました。
これはサイトを見る4つぐらいの層を考慮してみての事です。
というのは「開いただけで見もしないで閉じる」人と「流し読みでパパパッと見る」人と
「ちゃんと見る」人と「とことん細部まで見入る」人です。
一つ目のすぐ閉じる人は、今の僕の技量ではどうしようもありません。
なら次は流し読みする人です。
この人らにどうやって見てもらうか、そう考えた時に、多分こういう人らはサイトというのをスクロールして読み流すと思うんですよ。
なら、スクロールして読み流せる場所にメインコンテンツがないとダメだ。
しかもそれが読み流しでも目に留まるぐらい、分かりやすくないとダメだ。
…と考えて、スクロールした先に何より見て欲しいメインコンテンツを配置しました。
またゴチャゴチャさせてしまうコンテンツは極力配置せず、すっきり見せる努力をしたつもりです。
そして次は、ちゃんと見る人です。
こういう人らは文章をちゃんと読んでくれるので、サブコンテンツの存在にも気付いてもらえるだろうと思います。
ちゃんと見てくれる人にも、見応えのあるようあれこれサブにも配置出来るようにしています。
そして、細部まで見入る人らです。
僕らのようななんか作る人間にとって、有難くも宿敵のような存在だと思います。
だって、細部まで見られたら荒がバレてしまう。
そういう人らに対しても応えたく(なにせ僕が細部まで見るタイプですから)
僕はコンテンツ毎のトップ画像をとことん描き込みました。
でも、描き込みのせいでゴチャゴチャして見難かったら本末転倒です。
ですから、線画はとことん描き込み、色はとにかく大人しく、シンプルに描きました。
結果的にかなりのっぺりしてしまった気もしますが…。
でも、描き込んだ量の割りに見やすいんじゃないかなぁと思います、多分。
そんな訳で、僕の出来る範囲で、サイトに来た色んなタイプの人に応えられるようしたつもりです。

そして最後、Apple風のお洒落に落ち着かない、です。
最近どこかしこで見る、あれです。
作るのは非常に簡単ですし、おまけに見た目も宜しい。
でも、だからこそ、それに逃げたくないと心底思いました。
むしろごちゃっとしてて賑やかな感じやアットホームな雰囲気が欲しい、と思い
コンテンツ毎のトップを、とことん描き込んだうえで、キャラクター達を配置しgif画像で動かす事にしました。
…えぇ、こんな事したから馬鹿みたいに時間がかかりました。
でもお陰で、良くも悪くも僕らしいサイトに仕上がったんじゃないかと思ってます。


と、以上のことを考えながらサイトを作りました。
おかげで作るのに、仕事合間にやっていたせいでもありますが、およそ2ヶ月かかりました。
その間、作家さんにぼそっと言われました。
「映像屋なのに映像以外の事やってる人って暇なのかな、って思うよね」
…仰るとおりです、済みません。
でも、サイトもとり合えず整いましたし!
来年はガツガツとまたアニメーションを作っていきたいとこです!

そんな訳で、新設したサイトもこれから作る作品、これまでの作品も含めて、改めてよろしくお願いします。